もともと岡山城は中国地方では珍しい高石垣で囲まれた城でした。
いわゆる織豊系城郭の全盛期に築かれたお城ですから当然ですね。ただ石垣というのは積み方も進歩すれば、その存在意義も薄れていったため、江戸時代に入って増改築に伴い埋められたというケースが少なくありません。
そうした過去の石垣が近年の発掘調査で見つかることも多く、この岡山城でも1993年(平成5年)の調査で発見されたそうです。
下に降りていきます。
これが宇喜多秀家による築城時の石垣です。
壁に案内が書いてありました。
発掘調査で発見された石垣の実物を展示しています。岡山城の歴史を体感し、先人に思いを
岡山城は、岡山のまちの発展の直接の礎となった城です。豊臣秀吉のもとで大大名となった宇喜多秀家が、天正19年(1591)から慶長2年(1597)まで7年もの歳月をかけて築城しました。
その姿は中国地方の従来の城には見られなかった高石垣で囲まれ、金箔おしの瓦を掲げた高層の天守が聳(そび)えたものでした。これは空前の大建造物の出現であり、天下の名城でした。
やがて、江戸時代になると、城主達が進歩した城普請の技法で増改築を行い、城構えが大幅に変貌しました。石垣は、そうした時代の変化の中で役割を終え、城の改造工事によって埋め込まれたものです。
この施設は、石垣をまぢかに見据え、そうした城普請の時代的な発展の実態を体感していただくために、立入ができるようにしています。
石垣に触れると、先人の偉大な知恵と技が伝わってきます。この場で語り合い、国民特有の文化遺産であるこの城跡への理解を深め、岡山のまちと人の成り立ちに思いをはせてみてください。
もう一箇所あります。地中に埋もれていた石垣
【なぜ、ここに石垣が】
江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで「中の段」を北に大きく広げたからです。平成5年度の発掘調査で見つかりました。石垣は展示施設の壁を越えて続き、本来の裾は床下に埋もれています。拡張後の中の段には「表書院」の御殿が建てられ、この場所の真上は台所になりました。
【いつ築かれたか】
今から400年あまり前、宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。自然の石をほとんど加工せずに用いるのが特徴で、30年ほど後に積まれた中の段北側の現役の石垣が新式の割り石を使っているのと異なります。
【角が尖った珍しい石垣】
石垣の辺と辺がなす角度は70度です。これほど角が尖った石垣は全国的にみて非常に珍しいものです。石垣の東は当時の「下の段」から「中の段」に上がる道筋となり、廊下門の前身となる城門がありました。南西からの石垣は裏に埋め込まれている自然の丘の形に沿って延びているのにたいし、門前をきっちり南北方向に切り通したため、特異な石垣の隅が生じたのでしょう。
こちらにも案内板が。
宇喜多秀家が築いた中の段の西辺石垣
【南側に石垣がないのは】
もともと、石垣は南に続いていましたが、城を改造する時に石を抜かれたからです。石は新たに築かれた外側で現役の石垣に転用されたと考えられます。また、北側が石垣の形を保つのは、南を崩すだけで石の量が足りたか、石垣の上に建っていた長屋状の櫓(多聞櫓)を中の段内部の建物として残したからでしょう。
【石垣の特徴は】
石垣の本来の高さは10mほどあり、下の段から積まれています。頂部は壊れていますが上方の高さ3m分を露出展示しています。石は主に花崗岩で、加工を施さない自然石を横向きに積んでいます。石垣の傾斜は58度で、城の石垣としてはずいぶんと緩やかです。また、上方ほど傾斜が急となる「反り」の技法をとらず直線に立ち上がり、古い時期の特徴を持っています。
【ここから金箔瓦が出土】
石垣を埋め込んだ造成土からは、金箔をおした桐の文様の瓦が出土しました。平成8年のことです。桐は宇喜多秀家が豊臣秀吉が家紋として与えられたものです。この石垣の上、つまり秀家期の中の段には、こうした瓦を葺いた華麗な建物があったのです。
この石垣はどこまで続く
北へは、展示施設の壁を越えてあと25mほど真っ直ぐ延び、そこで103度の角度で北東に折れ、中の段北東で露出展示している石垣に繋がります。
また、南は石垣としては残っていませんが、施設の壁から10mほどの所で鍵折れし、さらに10mほどの所で東に大きく向きを変えたとみられます。
中の段では宇喜多秀家が築いた石垣のすべてが覆い隠されるまでに拡張工事が行われていたのです。
そうしたことを含め、安土桃山時代から江戸時代前期の間に中の段が改造されていった過程が、発掘調査でわかりました。岡山城の史跡整備のみどころ
中の段の北西隅には月見櫓(国指定重要文化財)が建物の実物として残っています。
また、史跡としての整備は、この場所にあった表書院(藩の政治の場や藩主公邸)の建物の間取りの表示と、小庭園の泉水の復元を一つの柱としています。
これは現在の地表面に明治維新を迎えた時の様子を表示したものです。
いっぽう、発見された埋没石垣は、築城期の実物です。
このように、岡山城の史跡整備は、実物と復原物を取り混ぜ、対象時期が二時期にわたる立体的なものとなっています。
石垣を埋め込んでいた400年前の土も見れるようになっています。