岡山城事務所によって作成された岡山城の公式パンフレットです。
岡山城の歴史
「安土(あづち)城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にして五重...」と、古い記録(『岡山城誌』)にもあるように、この岡山城は、本格的な城づくりのスタ-トとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。
いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天守閣の基壇(天守台という)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天守閣である。
かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほど行った、現在市民会館や放送局の建っている高台(『石山』という)にあった。
天正元年(1573)、宇喜多直家(うきた・なおいえ)が、当時ここの城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市東区沼)から移ってきた。
今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家(ひでいえ)で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。
こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。途中、秀吉の朝鮮半島への進攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。起工以来実に8カ年にも及ぶ大事業であった。
新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた範囲)は、現在も殆ど昔のまま残っている部分で、面積が約4万m2あった。
秀家の築いた天守閣は、石垣から高さが20.45m、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造である。外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも烏(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、「烏城(うじょう)」の別名がある。壁が黒いのは、戦国時代の名残りである。
また天守閣に内部には、かつて城主が生活していた「城主の間」の遺構が再現されていて、全国的にも珍しい設備である。他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。
かつて岡山城の範囲は、現在路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡、二十日堀といわれる)までで、建物の数としては、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時はわが国を代表する名城であった。
しかし明治2年(1869)、岡山城は国の所有となったものの、これら全ての建物を維持していくことができず、明治15年(1882)以後に残されたものは、僅かに天守閣・月見櫓・西の丸西手(にしのまるにして)櫓および石山(いしやま)門の4棟であった。
その後、これらは昭和6年と8年(1933)の二度に分けて国宝に指定されたが、昭和20年(1945)6月29日の早暁、第2次大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣・石山門を焼失してしまった。
現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリ-ト造りだが、外観は旧状通りに再現された。また同時に、不明(あかずの)門・廊下門・六十一雁木(がんぎ)上門、それに周囲の塀なども、古い絵図面に従い、外観が旧状通りに再現された。