深江城は安富氏代々の居城として知られています。戦国時代、安富純治・純泰父子は日之江城主・有馬鎮貴を離反して龍造寺隆信に従うと、1582年(天正10年)には有馬氏と組んだ島津氏の攻撃を受けましたが、籠城して撃退しています。しかし1584年(天正12年)に起きた「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討死すると、安富純泰は佐賀に逃れ、その後は深江氏を称しました。江戸時代に入り、1618年(元和4年)に松倉重政が島原城を築く際に残っていた石垣も持ち去られましたが、「島原の乱」では一揆軍の籠城に使われました。現在城址周辺は住宅地となっており遺構はありませんが、城址碑が建てられています。熊野神社は出丸と伝わります。
深江城(高来郡)を攻城した団員が残してくださったコメント(クチコミ)です。じっさいに訪問した方の生の声なのでぜひ参考に。
深江城(高来郡)へのアクセス情報 情報の追加や修正
---
じっさいに訪問した方の正確な情報をお待ちしています。 フィードバック
深江城(高来郡)とあわせて訪問するのにオススメのお城です。
深江城(高来郡)の周辺にあるホテルや旅館を表示しています。
あなたが泊まったホテルのレビューをお願いします!(レビューはホテルの詳細ページから投稿できます)
まだトピックがありません(情報募集中)
まだ本城登録している団員がいません
攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する