高田城
高田城

[新潟県][越後] 新潟県上越市本城町6-1


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.33(84位)
  • 見学時間:1時間4分(64位)
  • 攻城人数:1631(108位)

高田城の歴史

1610年(慶長15年)、徳川家康の6男・松平忠輝が福島城主となりました。
福島城堀秀治によって山城である春日山城に代わるものとして築かれた城でしたが、保倉川と関川、ふたつの川に挟まれた場所だったためにたびたび水害にあったそうです。そこで関川をさかのぼった内陸部にあらたに高田城を築城しました。
(なお福島城廃城と移転の理由は、忠輝の「波の音で眠れない」というわがままによるという説もあります)

高田城はいわゆる天下普請によって造られました。縄張りと工事の総監督は忠輝の舅にあたる伊達政宗です。
低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていたそうですが、これは政宗の居城、仙台城と似ています。

なお創藩当時の高田藩は、親藩の大藩である越前福井藩とともに、前田家(加賀藩)をはさんでけん制するために重要な役割を担っていましたが、前田家と徳川将軍家が縁戚を重ねるなど、しだいにその役割は弱まっていきました。

その一方で、元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、幕府や諸大名にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば「座敷牢」のような位置づけが強くなりました。

三重櫓の下に年表が書かれた案内板が設置されています。

高田城(高田藩)の歴史・沿革

西暦(和暦)出来事
1610年(慶長15年)徳川家康の6男松平忠輝が川中島から福島城主となる。
1614年(慶長19年)松平忠輝、福島城を廃して高田城を造り、城下町も高田に移す。縄張は伊達政宗による。
1616年(元和2年)松平忠輝が改易となり、伊勢の朝熊(あさま)に流され、酒井家次が高崎から高田に入封する。
1618年(元和4年)酒井家が信州松代に移封となり、松平伊予守忠昌が川中島から高田に入封する。
1624年(寛永元年)松平忠昌が北庄に転封となり、松平越後守光長が北庄から高田に入封する。
1631年(寛永8年)大凶作。
1655年(明暦元年)森源左衛門が大道郷の新田開発に着手し、潟川を掘り保倉川へ水を流す。
1665年(寛文5年)高田地震、高田城も城下町も壊滅し、2人の家老が圧死し死者多数にのぼる。1丈4尺(約4.2m)大雪を記録。
1666年(寛文6年)家老・小栗美作が幕府から5万両を借り復興に努める。
1674年(延宝2年)中江用水工事に着手し、翌年完成する。
1676年(延宝4年)大火により城下町の大半が焼失し、幕府より援助米がでる。
1679年(延宝7年)「越後騒動」が起こる。
1681年(延宝9年)将軍・綱吉が越後騒動を親裁し、松平光長は改易され伊予へお預けとなり城地は幕府領となる。
1681年(天和元年)大雪、「この下に高田あり」の高札をたてる。
1682年(天和2年)松平中将家の遺領の検地(天和検地)が行われる。
1685年(貞享2年)稲葉丹後守正通が高田城主となる。城下町に中島田んぼができる。
1689年(元禄2年)松尾芭蕉が来越する。
1698年(元禄11年)松平光長の養子長矩が津山城主となり、越後中将家が再興する。
1701年(元禄14年)稲葉正通が佐倉に転封となり、戸田能登守忠真が入封する。
1710年(宝永7年)戸田忠真が宇都宮に転封となり、松平越中守定重が入封する。
1722年(享保7年)質地騒動が起こり、首謀者多数が処刑される。
1741年(寛保元年)松平定賢が白河へ転封となり、姫路から榊原家が入封する。
1751年(宝暦元年)大地震で城下町は破滅的な被害を受け、幕府より復興のため1万両を借り入れる(名立崩れ)。
1753年(宝暦3年)上田端町より出火、467戸焼失の大火となり、救米30俵で貧しい人々を助ける。
1760年(宝暦10年)寺町大火で本誓寺など26か寺が焼失する。
1774年(安永3年)魚類の販売を巡る裁判で今町側が勝つ。
1793年(寛政5年)領内海岸警備に遠見番所を設け、大筒台を作る。
1802年(享和2年)高田城本丸御殿が全焼する。
1809年(文化6年)稲荷中江用水工事に着手し、1811年に完成する。飛び地だった奥州領5万石余が、頸城郡と村替えになる。
1810年(文化7年)奥州の陣屋を浅川から釜子に移す。
1811年(文化8年)妙高山麓の開拓がはじまる。
1814年(文化11年)1丈5尺(約4.5m)の大雪を記録。十返舎一九が来越する。
1816年(文化13年)赤倉温泉工事に着手する。
1831年(天保2年)小林百哺が新町に牙籌堂を開く。
1842年(天保13年)倉石侗窩が長門町に文武済美堂を開く。
1844年(天保15年)海岸に22の台場を築き、佐渡沿岸にも築く。
1844年(弘化元年)今町大火、1,322戸中、1,203戸が焼ける。
1847年(弘化4年)大地震(善光寺地震)で高田城が大破し、つぶれ家499戸、死者34人となる。
1866年(慶応2年)高田藩は長州遠征のため出兵して敗走し、その後、和議が成立して帰藩する。藩校脩道館を開く。
1868年(慶応4年)戊辰戦争が起こり、薩摩・長州などの官軍が来越する。
1868年(明治元年)旧幕府の歩兵隊長古屋佐久左衛門が、兵を率いて来越する。高田藩は川浦で古屋軍を攻撃して破り、長岡・会津征討の先鋒隊を命じられ各地に転戦する。若松城が開城し、高田藩は帰藩する。高田藩を脱藩した藩士たちは、神木隊を編成して彰義隊に参加して戦う。
1869年(明治2年)岡田保の生糸輸出計画により、黒船2隻が直江津港に入港する。会津藩の降伏者1,742人を預かる。版籍を奉還し、藩主・榊原政敬が藩知事となる。
1870年(明治3年)会津藩の降伏者を斗南藩に引き渡す。
1871年(明治4年)廃藩置県により高田藩を高田県とし、のちに柏崎県となる。
   

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江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

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