高田城
高田城

[新潟県][越後] 新潟県上越市本城町6-1


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.26(170位)
  • 見学時間:1時間3分(137位)
  • 攻城人数:667(114位)

高田城の歴代城主一覧(高田藩・歴代藩主)

高田城は松平忠輝の築城以来、7家、17人の城主がいます。
越前松平家の松平光長は57年3か月にわたり城主をつとめ、その間には1665年(寛文5年)に起きた「寛文の大地震(高田地震)」などの災害にも遭遇し本丸の櫓や御殿も倒壊しましたが、修復しています。

この光長の時代には家老の小栗美作が藩政を取り仕切っていましたが、権力を掌握しすぎたこともあり光長の跡継ぎを巡る御家騒動、いわゆる「越後騒動」が勃発することになります。
その結果、高田藩は改易処分となりますが、この一件以来、高田藩は「懲罰的な転封先」とされるようになります。

じっさいその後に城主となった、稲葉正住は小田原藩から、戸田忠真は佐倉藩から、松平定重は桑名藩から、榊原政永は姫路藩から左遷されています。
(榊原政永については左遷の理由は父である榊原政岑にあるんですけどね)

以下に、歴代の高田城主一覧を記載します。

高田城の歴代城主

歴代 西暦(和暦)城主メモ
11610年(慶長15年閏2月)松平忠輝徳川家康の6男。母は側室茶阿局(ちゃあのつぼね)。伊達政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)と結婚。1610年(慶長15年)2月に福島城主となり、1614年(慶長19年)に高田城を築城した。築城わずか2年後の1616年(元和2年)7月、忠輝は兄である秀忠により城地を没収され、伊勢の朝熊(あさま・三重県伊勢市)に配流を命じられ、その後も飛騨高山城、諏訪高島城に預けられて92歳で死去した。
21616年(元和2年)酒井家次徳川四天王筆頭であった酒井忠次の長男。母は徳川家康の叔母碓井姫であり、家次は家康の従弟にあたる。松平忠輝の改易にともない、上野高崎10万石から移封(10万石)したが、高田入部から2年足らずの1618年(元和4年)3月に死去。家督は子の酒井忠勝が継いだが、1619年(元和5年)3月に信濃松代藩へ移封された。
31618年(元和4年3月)松平忠昌徳川家康の次男で松平忠輝の異母兄・結城秀康の次男。1623年(元和9年)5月に越前福井藩を継いでいた長兄の松平忠直が不行跡を理由に改易されたため、幕命により忠昌は兄の跡を受けて宗家を継ぐこととなり、福井藩主となる。
41624年(寛永元年3月)松平光長福井藩を改易された松平忠直の嫡男。叔父にあたる松平忠昌と入れ替わる形で高田城主となる。光長の「光」の字は将軍・徳川家光から1字を拝領したもの。越後騒動のため改易処分となった。
51681年(延宝9年7月)在番時代1681年(延宝9年)7月から1685年(貞享2年)12月まで、高田は幕府領とされ、信濃他の諸大名が2家組・1年交代で城番を勤めた。
61685年(貞享2年12月)稲葉正通春日局の曾孫であり、4代将軍・家綱の下で老中をつとめた稲葉正則の長男。京都所司代をつとめていたが、親戚の若年寄・稲葉正休が大老・堀田正俊を暗殺した事件で連座、遠慮処分となり、小田原藩から転封を命じられ高田藩に。その後、老中として幕政に返り咲き、領地も佐倉藩に移された。有名な赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件の当日、月番老中をつとめていた正往は、柳沢吉保が登城する前に事後処理を速やかに開始し、浪士たちが即刻処分がされることのないように配慮した。1716年(享保元年)に77歳で死去。
71701年(元禄14年6月)戸田忠真老中・戸田忠昌の次男。寺社奉行。赤穂事件の際には急遽御馳走役の代役をつとめたが、将軍・綱吉の不興を買ったためか、佐倉藩主だったが稲葉家と入れ替わる形で高田藩へ。綱吉が死去すると下野宇都宮に移封となり、ふたたび幕政に復帰した。7代将軍・家継、8代将軍・吉宗の時代には老中として支えた。1729年(享保14年)10月29日に79歳で死去。
81710年(宝永7年閏8月)松平定重定綱系久松松平家3代。松平定頼の三男。桑名藩主をつとめていたが、家中不手際の処理(野村騒動)が苛烈過ぎると将軍・綱吉の不興を買って転封。1712年(正徳2年)9月7日、五男の定逵に家督を譲って隠居し、1717年(享保2年)10月27日に74歳で死去。
91712年(正徳2年)松平定逵1718年(享保3年)9月10日に42歳で死去し、跡を次男の定輝が継いだ。
101718年(享保3年)松平定輝1725年(享保10年)、越後質地騒動を鎮圧したが、同年10月1日にわずか22歳で死去。跡を叔父の定儀が継いだ。
111725年(享保10年)松平定儀松平定重の六男。1727年(享保12年)9月25日に死去、跡を養嗣子の定賢が継いだ。
121727年(享保12年)松平定賢松平頼貞の六男。定儀の養女を正室に迎え養子となり高田藩主となった。1741年(寛保元年)11月1日、陸奥白河に移封される。1770年(明和7年)7月12日に死去し、跡を長男の定邦が継いだ。
131741年(寛保元年11月)榊原政永榊原政岑の次男。長男が早逝し、お家断絶の危機に陥ったため、兄の代わりとして生きることになった。1789年(寛政元年)5月10日に隠居し、跡を次男の政敦に譲る。1807年(文化4年)に73歳で死去。
141789年(寛政元年)榊原政敦1810年(文化7年)家督を長男の政令に譲って隠居した。1819年(文政2年)に65歳で死去。
151810年(文化7年)榊原政令名君として知られ、藩財政の立て直しに尽くした。赤倉山の温泉の掘削して赤倉温泉を開いたり、藩士宅に果樹の木の植樹推進など多方面にわたる改革や産業の育成を行った。1827年(文政10年)に隠居し、跡を長男の政養に譲る。1861年(文久元年)、86歳で死去。
161827年(文政10年)榊原政養1839年(天保10年)に隠居。男子がなかったため、家督を五弟の政愛に譲った。1846年(弘化3年)に49歳で死去。
171839年(天保10年)榊原政恒(政愛)正室は老中・水野忠邦の娘。1861年(文久元年)死去した。子がなかったため、跡を甥の政敬(兄・政礼の長男)が継いだ。
181861年(文久元年)榊原政敬高田藩最後の藩主。1866年(慶応2年)の第二次長州征討では、彦根藩とともに芸州口の先鋒を命じられたが、近代装備を備えた長州藩兵に敗れる。1927年(昭和2年)死去。

本丸跡の案内板にも簡単な一覧が記載されています。

   

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