- ブログ
まさに右腕として家康を支えてきた石川数正の出奔は、この連載でも最高レベルの謎のひとつだと思います。交渉役が板挟みになって味方からも責められ(結果的に)敵方に走るという構図はのちの片桐且元に似てますね。
- ブログ
徳川家康は学問のみならず、武術においても達人レベルだったそうです。身体を動かすというちがいはあれど、多くの師匠に師事して学び、身につけるという点ではどちらも共通しているのかもしれませんね。 神君として盛られたエピソードも多そうですが、家康という人のストイックさを感じます。
- ブログ
攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました
今回は「戦国大名はなぜ名字を変えるのか」について榎本先生に教えていただきました。松平から徳川に改姓した家康だけじゃなく、上杉謙信や明智光秀など名字を変えた戦国大名・戦国武将は多いですよね。
- ブログ
家康にかぎらずこの時代の名君と呼ばれるような人は、有能なスタッフを集めて強いチームを形成してましたよね。 ゲームだと武力の能力値に目が行きがちですが、じっさいには統治や内政を支えたブレーンたちが為政者には不可欠でした。
- ブログ
ルイス・フロイスが書いた『日本史』に家康が信長の「義弟」という記述があるそうです。 三国志の劉備たちが義兄弟を名乗ってるように、姉妹との結婚がなくても義弟と呼ぶことはあるので、おそらくそういうニュアンスなのでしょうが、この当時のポルトガルやカトリック教において義兄弟の概念があったのかが気になりますね。
- ブログ
【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?
よく言われる家康の三大危機のひとつが伊賀越えです。 個人的には本能寺の変のあと、ひとりでも味方が欲しい光秀に対して(ウソでもいいので)同盟の申し出をすれば東海道を素通りさせてもらえたのではないかと思うのですが、混乱中で交渉の時間もほぼない状況ではむずかしい判断ですね。
- ブログ
大河ドラマでは「信長を殺す」と名言した家康ですが、史実では京に戻って知恩院で追腹を切ろうとしたと伝わっています。そもそも信長を殺すなら富士山見物の際に実行したほうが成功率は高いわけですしね。ただ秀吉が「やった奴がバカを見る(実行犯が損する)」と言ったように家康も秀吉も信長の排除はどこかで願っていたのかもしれません。
- ブログ
家康は野戦上手で攻城下手、といった評価がよく言われますがほんとうのところはどうなのでしょう。そもそも討死したからといってそれは一度の敗北を意味するだけですし、戦略と戦術、あるいは戦闘レベルのどの視点で評価するかでもかなり差が出そうですね。
- ブログ
四天王はもともと仏教における神々のことですが、聖徳太子(厩戸皇子)が大阪に四天王寺を建立したように日本でも飛鳥時代から信仰されていたようです。なお四天王のひとり、多聞天だけは単独で祀られることも多く、その場合は毘沙門天(びしゃもんてん)と呼ばれます。
- ブログ
「ケチ→倹約家」というのは「デブ→貫禄がある」のように大人の言い換えでしかないと思いますが、お金の使い所を知っている人と言えばまたちがう評価になりますよね。もっとも信長や秀吉など天下人と呼ばれるような人たちは全員その素質はあったと思いますが。
- ブログ
三英傑の認知度がそれほど高くないという調査はじっさいそうかもしれないですね。ぼくも歴史に興味を持つまで知らなかったので。ホトトギスの創作はそれより有名ですが、近年の研究で信長は意外と我慢強いことがわかっているので、ちょっとした信長のネガキャンになってますよね。
- ブログ
日光東照宮に頼朝が祀られているのは知りませんでしたが、調べてみると明治維新後のことらしいです。創建当初は配祀神として左右に山王神・摩多羅(まだら)神だったものを、維新後の神仏分離により豊臣秀吉(左神)と源頼朝(右神)に変更になったそうですね。 ただし山王神・摩多羅神はもともと秀吉・頼朝を指していた説や、史料によっては頼朝ではなく信長公と記したものもあるとか。
- ブログ
今回は「守護代」について榎本先生に教えてもらいました。守護に代わって分国へ赴任するのが守護代だと思っていたのですが、どうも在京したままの守護代もいたそうですよ。
- ブログ
コラムでは芸術への関心が薄かったと書かれてますが、たとえば家康が能や狂言を愛好していて、自らも演じています。た将棋や囲碁も好んだことは有名で、とくに囲碁においてはプロ棋士を誕生させた功績が評価されて日本棋院による殿堂入りを果たしています。
- ブログ
武家の当主にとって子どもを作ることは重要な役割のひとつでした。義務と言ってもいいかもしれません。コラムには伊達政宗の曾祖父、伊達稙宗が紹介されていますが、信長にも20人以上の子どもがいたとされます。家康の子どもたちひとり一人のドラマも見てみたいですね。
- ブログ
多くの戦国大名と同様に家康にもたくさんの側室がいました。側室は「○○の方」と紹介されるため覚えるのが大変ですが、ドラマに登場すると役者のイメージで記憶できるのでいいですね。ちなみに関ケ原前後で年増好みが若い娘好みに変わったのはたんに家康本人の年齢を考えると若い娘を側室に迎えないと元気な子どもを産めないからではないかと。
- ブログ
しかみ像が三方ヶ原の戦い後に描かれたものではないというのは最近よく知られるようになりましたが、この絵のインパクトは大敗を喫した直後のものだと信じさせる説得力がありますよね。 (でもちゃんと否定していかないと誤情報が広まりつづけるので気をつけたいです)
- ブログ
今回は戦国大名が定めた「分国法」について榎本先生に教えてもらいました。いまだにちゃんと理解できてないのですが、織田信長や徳川家康が作ってないことを踏まえても分国法ってそこまですごいものではなさそうです。
- ブログ
空城計は「名探偵コナン」でも登場するくらいメジャーですが、そもそも正史ではなく娯楽小説『三国志演義』に書かれていたように諸葛亮孔明のエピソード自体が創作とされています。ちなみに『兵法三十六計』というのは「三十六計逃げるに如かず」で有名なアレです(この走為上(そういじょう)が最後の戦術)。
- ブログ
【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは
今回は「家康の謎」番外編として、徳川家康のルーツについて榎本先生にコラムを書いていただきました。「なんとか松平」がたくさんあることは知っていましたが、これらの分家がどの代で分かれたかって知ってました?(とはいえこの家系図も真偽が怪しいそうですが)