北条早雲という名前は多くの方が聞いたことあると思うのですが、なにをやった人かということを説明できる人はそれほど多くないのではないでしょうか。
今回は北条早雲についてできるだけわかりやすく紹介します。
まず、彼がなし得たことをひとつずつ取り上げる前に、有名な逸話だけど現在は否定されている説についてふれておきます。
ひとつ目は「生年」についてです。
小説などで早雲は遅咲きの武将として描かれてきましたが、これは1432年(永享4年)生まれの説を採用していたからでした。しかし近年では(まだ確定したわけではないものの)1456年(康正2年)生まれと見られています。
もうひとつは「出自」についてです。
よくある早雲のエピソードとして、一介の素浪人が妹(または姉)の嫁ぎ先の今川家を頼って駿河に下向し、そこで出世してさらには関東に進出するという、豊臣秀吉に並ぶ立身出世物語として描かれることが多かったのですが、これも最近では否定されています。
近年では早雲は備中伊勢氏の出身で、将軍に直接仕えるエリートが幕府の命を帯びて駿河に下ったとされています。
また、「北条早雲」という名は存命中には使われていませんでした。
そもそも「北条」を名乗るようになったのは2代・氏綱の時代からです。なので本来ならここでは「伊勢宗瑞」(あるいは出家前の「伊勢盛時(伊勢新九郎盛時)」)で説明すべきなのですが、通りのよい「早雲」を使います。
早雲は岡山県の高越城で生まれました。
室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の支流「備中伊勢氏」の家系で、早雲の父・伊勢盛定は幕府政所執事・伊勢貞親とともに8代将軍・足利義政の申次衆をつとめていました。
室町幕府で9代将軍・足利義尚の直属の家臣(奉公衆)だった早雲は、1487年(長享元年)に今川家の家督争いを解決するために駿河に下向しました。
今川家では1476年(文明8年)、当主・今川義忠が戦死したため、実子・竜王丸(たつおうまる)と、従兄弟・小鹿範満(おしかのりみつ)によって家督争いが起こりました。義忠の妻(=竜王丸の母親)は早雲の実姉・北川殿で、つまり竜王丸は早雲の甥にあたります。
このとき堀越公方・足利政知と扇谷上杉家が小鹿派につき、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が兵を率いて圧力をかけたこともあり、範満が今川家の家督を相続しました。
なお、これもこれまでの説では早雲が姉に頼まれ、幼少の甥っ子に今川家の家督を継がせるために京から駿河までやってきて、道灌と会談して「竜王丸が成人するまでは範満を家督代行とする」として騒動をおさめたという逸話もありますが、現在はこの1476年(文明8年)の駿河下向はなく、「竜王丸が成人するまで」というエピソードものちに範満を征伐したことを正当化するための創作だと考えられています。
1487年(長享元年)に駿河に下り、石脇城に在城していた早雲は、駿河館を襲撃して範満らを討伐しました。
こうして竜王丸は今川氏親を名乗り、正式に今川家当主となりました。早雲には恩賞として興国寺城が与えられました(善得寺城の説もあります)。早雲は氏親の外叔父である立場と家督継承における功績から、今川氏家中の中心的存在にまでのぼりつめました。
人間関係としてはこんな感じです。
「サザエさん」でたとえるなら、マスオさんが亡くなったためにフグ田家の家督争いが起き、本来なら嫡男のタラちゃんが家督を継ぐはずなのに、マスオさんの従兄弟がしゃしゃり出てきたと。
そこでサザエさんが弟のカツオに頼んで、カツオはその従兄弟を成敗して、ぶじにタラちゃんがフグ田家の当主になれたので、カツオはフグ田家の重臣として取り立てられたという感じです。
関東の戦国時代は早雲の伊豆乱入(伊豆討入り)によってはじまったと考えられています。
当時の伊豆は堀越公方・足利政知が治めていました。政知の長男・茶々丸は素行不良だったこともあり廃嫡されて土牢に軟禁されていましたが、1491年(延徳3年)に政知が没すると、牢番を殺して脱獄し、後継者として堀越公方に決まっていた異母弟の潤童子と継母・円満院を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きます。
茶々丸と潤童子の間にはもうひとり兄弟がいました。三男・清晃(せいこう)は出家して京にいましたが、管領・細川政元によるクーデター(明応の政変)で還俗して足利義遐(よしとお。のちに義高、義澄に改名)として将軍に擁立されました。
早雲による伊豆乱入と足利茶々丸の追放は、この義遐に母と弟の敵討ちを命じられてのことだったようです。
早雲は韮山城に本拠を移し、狩野城や深根城などを攻略して、6年がかりで伊豆を平定しました。なおこの伊豆乱入を契機に出家して「早雲庵宗瑞」を名乗るようになったようです。
早雲は伊豆乱入に際して扇谷上杉氏との同盟を結んでいました。
当時、扇谷上杉氏と山内上杉氏は抗争(長享の乱)の最中で、早雲は扇谷上杉氏から山内上杉氏に寝返った大森藤頼を討ち、小田原城を奪取しました。ちなみにこの小田原城奪取の時期については1495年(明応4年)9月など諸説ありますが、正確な時期はわかっていません。
その後は扇谷上杉氏の援軍として(ときには甥の今川氏親とともに)相模・武蔵に出陣しますが、同時に今川氏の武将としても甲斐や三河に出陣しています。
1509年(永正6年)以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中することになります。
1512年(永正9年)8月、早雲は相模の豪族である三浦氏を攻めます。
三浦道寸(三浦義同)の岡崎城を攻略し、さらに道寸が退いた住吉城も落城させ、三浦半島の先端にある三崎城にまで追い込みます。この時点で早雲は相模の支配権をほぼ掌握し、道寸を三浦半島に封じ込め、江戸城からの救援を防ぐために鎌倉に玉縄城を築きました。
そして1516年(永正13年)7月に三浦氏を滅亡させ、相模全域を平定しました。
この三浦氏を滅ぼした「新井城の戦い」では、海が三浦一族の血で染まり、油の壺のように真っ黒に染まったことから、現在の地名でもある「油壺(あぶらつぼ)」と呼ばれるようになったといわれています。
早雲は1518年(永正15年)に家督を嫡男・氏綱に譲り、翌年韮山城で死去しました。
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