関東の戦国時代は伊勢宗瑞(以下、北条早雲)の相模乱入にはじまり、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で終わったといわれています。
じっさい徳川家康が江戸城に移ってからは大きな戦も起きていませんし(江戸時代に「桜田門外の変」のような局所的な戦闘行為は起こってますけどね)、関東は平和な地域でした。
では北条早雲が小田原城を奪取して相模に進出し、その後、氏綱・氏康の時代に武蔵に進出する前の関東はどういう状況だったのでしょうか。
じつはここがおもしろいんです。戦国時代の関東というと北条氏をイメージしがちですが、その少し手前から理解するとより楽しめると思います。
たとえば、鎌倉公方、古河公方、堀越公方、小弓公方。
なぜこんなに公方だらけになっているのかちゃんと説明できますか?
ぼくも名前だけは知ってたんですけど、どういう経緯で乱立したのかまでは理解してませんでした(小弓公方なんて読み方もおぼろげでした)。歴史の授業でちゃんとやらないですよね。
今回、北条氏のバッジをつくるために少し勉強したので、できるだけわかりやすくまとめてみます。
全体の流れをもう少し詳しく解説していきます。
とにかく人名がたくさん出てきますが、まずは大きな流れ(どういう権力争いが起きたのか)をおさえることを優先して、あらためて人名込みで読み返すとわかりやすいと思います。
まず室町幕府について理解するところからはじめます。
室町幕府は足利尊氏が開いた武家政権であるというのは周知のとおりですが、政治基盤としてはかなり脆弱な状態でした。いわゆる南北朝問題や、尊氏と弟の足利直義の間に確執があったり、そこに執事の高師直(こうのもろなお)がからんできたりと、ぜんぜん安定してなかったのです。
そういう状況でしたから必然的に室町幕府の本拠は京都にせざるをえませんでした。
京都を離れてしまうと帝(天皇)を奪われたり、クーデターが起きる危険があったからです。とはいえ鎌倉幕府があった関東では国人と呼ばれるその土地々々の豪族(国人、国衆)の勢力が強くて、幕府の支配が及ばないため、尊氏は鎌倉に公方府(くぼうふ)をおいて統治させることにします。
これが鎌倉公方府(鎌倉府)で、その長官を「鎌倉公方」と呼びました。
初代鎌倉公方には尊氏の次男、足利基氏が任命されました。
そしていわゆる関八州(相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野)に、甲斐と伊豆を加えた10カ国を統治させました。
この鎌倉公方の名称は政庁の置かれたのが鎌倉だったからという理由なので、正確には「関東公方」と呼んだほうが、のちにできるほかの公方を含めて理解しやすいと思います。
ようは関東公方の座を巡って、足利一族で争ったからなんとか公方が乱立したわけですね。
関東公方(このときは鎌倉公方)は室町幕府の出先機関で、本社と支社のような関係でした。あくまでも決定権は京都の本社にあります。
そして鎌倉公方に就任した基氏はこのときまだ10歳だったため、補佐するために置かれたのが「関東管領」です。
いわゆる執事として公方を助ける役職で、初期は高氏、畠山氏、斯波氏などが担当しましたが、次第に上杉氏が世襲して独占するようになります。その上杉氏内部でも権力争いが起こるわけですが、それについては順を追って説明します。
1409年(応永16年)、鎌倉公方が4代・足利持氏のときに事件が起こります。
当時の関東管領、上杉氏憲(禅秀)が鎌倉府の実権を掌握しようとしたため、氏憲は関東管領を更迭され、その結果「上杉禅秀の乱」に発展します。
この乱は当初は関東の国衆を味方につけた禅秀方が優勢でしたが、鎌倉を脱出した持氏が駿河の今川範政の元に逃れて幕府の援助を求めると形成は逆転し、禅秀は鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自害しました。
乱の鎮圧後、持氏が鎌倉に復帰すると、その翌年の1418年(応永25年)に関東管領の上杉憲基(のりもと)が27歳の若さで急死します。後任としてわずか10歳の憲実(のりざね)が就任したため、本来公方を補佐するべき関東管領が公方より若年というおかしな事態が発生します。
そうなると、持氏を諌める者もいなくなり、彼は独裁的にふるまい、幕府(将軍)を軽視するようになります。
じつは幕府と鎌倉公方との対立は持氏の祖父で2代・足利氏満の時代からはじまっていたようです。
京都の情勢が安定するにつれて関東も支配しようとする将軍家と、既得権を守ろうと抵抗する鎌倉公方が対立するのは当然でもありました。
1425年(応永32年)に5代将軍・足利義量(よしかず)が病死すると、持氏は将軍の座を望みましたが、それは叶えられず、結果くじ引きで選ばれたのが、6代将軍・足利義教です。
(「くじ引きって!」って思いますよね。ぼくも思いましたけど今回は割愛します)
ここから両者の対立は深刻化して、関東管領・上杉憲実は関係改善に努めましたが、持氏は逆に憲実を遠ざけ、暗殺の噂まで出はじめたため、1437年(永享9年)に管領職を辞職します。
ワンマン社長がイエスマンだけを周囲に置きたがるという構図は現代と変わりませんね。
1438年(永享10年)6月、憲実は持氏の嫡子・賢王丸(義久)の元服式を欠席し、さらに8月には鎌倉を去り、領国の上野国へ下ると、これを憲実の反逆と見た持氏は討伐軍を差し向けます。
いわゆる「永享の乱」です。この乱は鎌倉公方・持氏と関東管領・憲実の争いでしたが、幕府は憲実側についたため、持氏は朝敵となり敗れました。
憲実は持氏の助命と義久の公方就任を嘆願したものの、義教はこれを許さず、ふたりは最終的に自害させられます。
この結果、鎌倉府は滅亡しました。
ところが二年後の1440年(永享12年)、義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝ら北関東の国衆が、難を逃れた持氏の次男・春王丸と三男・安王丸を奉じて挙兵する「結城合戦」が起こります。
この反乱は幕府方の上杉清方(きよまさ)らによって鎮圧され、結城氏朝は討死、春王丸と安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって殺害されました。
その後、1449年(文安6年)に、生き延びた持氏の四男・永寿王丸(幼名は万寿王丸の説もあり)が足利成氏(しげうじ)として再興した鎌倉府に戻り、鎌倉公方となります。
鎌倉府再興の背景としては将軍・義教が「嘉吉の乱」によって暗殺され、中央の支配体制が弱体化したことも影響していると思われます。
成氏は鎌倉公方就任後も上杉方に襲撃されるなど、依然として関東は緊張下にあり、さらに幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わると、勝元は鎌倉公方から関東の支配権を奪おうとしました。
そのような鎌倉府内外の軋轢の中、1454年(享徳3年)に成氏は、憲実の嫡男で関東管領を継いでいた上杉憲忠(のりただ)を謀殺します。
以後、約30年間におよぶ「享徳の乱」の勃発です。
この戦いは関東を二分して、各地で戦闘がおこなわれました。
幕府は成氏を朝敵として、駿河守護・今川範忠(のりただ)を上杉氏の援軍として差し向けます。範忠が鎌倉を制圧すると、成氏はあらたに下総古河を本拠として抵抗をつづけました。
そのため、成氏は「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれるようになります。
1458年(長禄2年)、幕府は古河公方への対抗措置として、将軍・義政の異母兄・政知(まさとも)を正式な新・鎌倉公方として下向させました。
しかし政知は鎌倉に入れず、その手前である伊豆の堀越にとどまり、ここに御所をおいたので、「堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)」と呼ばれるようになります。
このことにより、古河公方と堀越公方というふたりの関東公方が並立する事態が発生します。
またこの堀越公方・政知の死後に後継ぎ問題が起こり、結果として北条早雲が伊豆を平定することになるのですが、それはまたあとで。
政知がなぜ鎌倉に入れなかったかについてですが、正確なところはわからないものの、以下のような理由が考えられるそうです。
「箱根の関」というように、関東というのは箱根以東を指しますので、政知は箱根をこえることができず、伊豆にとどまるしかなかったというわけです。
もちろん関東を支配することなどできず、堀越公方は関東公方でありながら、伊豆一国しか統治できませんでした。
享徳の乱において、堀越公方の存在は古河公方・足利成氏に対抗する上杉氏にとってのお飾りみたいなもので、実質的には関東の国人を味方につけた成氏の陣営と、上杉氏との戦いでした。
ひとくちに上杉氏(上杉家)といっても、じつはいくつかにわかれています。
関東管領・上杉氏は犬懸(いぬかけ)上杉氏、山内(やまのうち)上杉氏、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏、詫間上杉氏(宅間上杉氏)の四家にわかれていました。「鎌倉上杉四家」と呼んだりしますが、これらはいずれも鎌倉の地名から生まれた家です。
関東管領のポストは当初は犬懸上杉氏と山内上杉氏が、のちに山内上杉氏が世襲するようになります。「上杉禅秀の乱」で反乱を起こした上杉禅秀は犬懸上杉氏の出身で、その後、関東管領についた上杉憲基は山内上杉氏出身です。
彼らは同族ではあるものの、ライバルでもあったんですね。
さて、「享徳の乱」に戻ります。
古河公方・足利成氏との小競り合いがつづく中、山内上杉家に事件が起きます。
1476年(文明8年)、家宰職にあった長尾景信が死去しました。家宰職というのは軍事・内政ともに絶大な権力を持ち、じっさい景信は山内上杉家の実権を掌握し、陰の実力者として君臨していました。
景信の出身である白井長尾家は主家である山内上杉家を脅かすまでの勢力を有するようになり、それを恐れた当主・上杉顕定(あきさだ)は家宰職を景信の嫡男、景春(かげはる)に継がせませんでした。
それに怒った景春が起こしたのが「長尾景春の乱」です。
ここでもうひとり、有名な戦国武将が登場します。
太田道灌という武将の名前を聞いたことがありますか。
江戸城を築いたのは徳川家康ではなく、この道灌で、いまも皇居には「道灌堀」という水堀が残っています。
道灌は武将としても学者としても一流とされる人物で、扇谷上杉家の家宰として勢力拡大に大きく貢献しました。
また道灌は景春の従兄弟でもありました。
景春は道灌に(上杉方を離反して)乱に加わるように誘いましたが、道灌は断っています。当初、景春に押されていた上杉方ですが、道灌の活躍で攻勢に転じます。
しかし景春の本拠・鉢形城を囲んだところで、古河公方・成氏が参戦したことでまた景春方が息を吹き返します。
一進一退の状況がつづきましたが、1478年(文明10年)、成氏が幕府への取り成しを条件に和睦してしまいます。これを「都鄙和睦(都鄙合体)」と呼びます。成氏としては鎌倉公方府にかわる幕府の正式期間として古河公方府を認めさせることが望みで、関東の覇権争いにはさして興味がなかったようです。
成氏の離脱で、景春は孤立無援となり、1480年(文明12年)6月に最後の拠点である日野城を道灌に攻め落とされ逃走します。
景春はこのあともしぶとく生き残ってあちこちで反乱を起こしたりするんですが、割愛して先を急ぎます。
1482年(文明14年)、成氏はようやく幕府とも和議が成立し古河公方府が認められました。そして、30年におよんだ「享徳の乱」はついに終結しました。
この乱において最大の功労者である道灌は、景春方についた国衆から奪った所領を家臣たちに与えます。景春はもともと山内上杉氏に属していたわけで、この結果、山内上杉氏の勢力は衰え、扇谷上杉氏の勢力が伸長します。
当然、山内上杉氏の当主である上杉顕定は扇谷上杉氏への反感を強めていきます。
一方、主家を脅かすほどの権力をにぎり身勝手に振る舞う道灌を、扇谷上杉氏の当主、上杉定正は疎ましく思うようになります。
そしてついに道灌は暗殺されることになります。
道灌暗殺により、道灌の子・資康はライバルの山内上杉氏に寝返ります。ほかにも扇谷上杉氏に付き従っていた国人や地侍の多くが寝返ったようです。
道灌が死の間際に「当方滅亡(自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はない)」と言い残したとおり、扇谷上杉氏は苦境に陥ります。
そして道灌暗殺の翌年となる1487年(長享元年)、山内上杉氏と扇谷上杉氏の同盟関係は決裂することになり、両氏は「長享の乱」と呼ばれる抗争を繰り広げることになります。
この1487年(長享元年)は北条早雲が甥である龍王丸を奉じて、小鹿範満を討ち取った年でもあり、さらに新九郎の長男(北条氏綱)が生まれた年でもあります。
関東にかぎった話ではないのですが、とにかく勢力内部の政治闘争(とくにナンバー2下ろしとクーデター)が常にあちこちで起こっていて、そこに他勢力が参戦して話がよりややこしくなるという展開が繰り返されています。
やがて北条早雲が関東に進出すると、早雲の孫の氏康によって扇谷上杉氏は滅ぼされ、さらに山内上杉氏も関東を追われることになり、関東管領上杉氏は没落することになりますが、北条氏が関東一円に勢力を広げる前は、関東は鎌倉公方と関東管領によって支配されていたという経緯は押さえておきたいですね。
そして、その両者(両家)の関係はけっして良好なものではなく、というかほとんど常に緊張状態にあり、そこに幕府の意向や上杉氏同士の対立や重臣のクーデターなどがからみあって室町時代を通じて戦乱がつづきました。
ちなみに冒頭で紹介した公方にはもうひとつ「小弓公方(おゆみくぼう)」がいました。
これは古河公方家の内紛で生まれたもので、関東支配を目論んだ甲斐武田氏の分家である真里谷武田氏が足利義明を小弓公方として擁立したものです。
小弓公方は氏綱の時代の出来事なので、またあらためて紹介します。
また関東公方としてほとんど仕事ができないどころか、(幕府が古河公方を認めたことで)幕府からもはしごをはずされた形になってしまった堀越公方・足利政知は自らの子どもを室町幕府の将軍にして権力をにぎろうと画策しました。
政知自身は1491年(延徳3年)に亡くなったものの、1493年(明応2年)、出家して清晃と名乗っていた子どもは、室町幕府の管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって、足利義澄(当初は義遐)として将軍になっています。
ちなみにこの伊勢貞宗は北条早雲の従兄弟と見られている人物です(諸説あり)。
このあとも中央(京)ではずっと政変がつづいてゴタゴタするのですが、それをうまく利用して(ときには連携して)早雲は勢力を拡大していきます。
前置きとしてはめちゃくちゃ長くなりましたが、こういう時代背景であったことを踏まえて北条氏の歴史を学んでいきましょう。
ここからは次回につづきます。
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