仙石騒動は、江戸時代後期の1834年(天保5年)に出石藩仙石家に起きたお家騒動です。
当初は仙石左京(仙石久寿)と仙石造酒(みき=仙石久恒)という家老間の派閥争いでしたが、のちに江戸幕府内の老中間の権力争いに発展しました。
第6代藩主・仙石政美(せんごくまさよし)の代、逼迫した藩財政の再建策において仙石左京と仙石造酒は対立していました。
ふたりとも仙石氏一門ではありましたが、行政の最高責任者である改革派の筆頭家老の左京は急進的な重商主義的産業振興策と人件費削減策を掲げ、財政責任者である守旧派の勝手方頭取家老の仙石造酒は質素倹約令の励行という保守的な政策を主張しました。
政美はいったんは左京の政策を支持したのですが、なかなか成果が上がらなかったため、一時失脚していた造酒を復権させ藩政を執らせることにします。
しかし、その直後、1824年(文政7年)に政美が28歳の若さで嗣子(跡継ぎ)なく病没したことから、このふたりの権力争いが激化することになります。
政美は参勤交代の途中で発病し、江戸に着いてまもなく亡くなったのですが、その死後、政美の父であり仙台藩主でもある久道が後継者を選ぶための会議を江戸で開きます。
左京も筆頭家老として出石から江戸に出ますが、このときに実子小太郎を同伴させたため、小太郎を後継に推し、藩を乗っ取るつもりではないかと不信感を抱いた造酒との対立がさらに深まることになりました。
会議は造酒派の主導で進み、後継は久道の十二男であり政美の弟である道之助を元服させ、久利として藩主に据えることで決定し、左京もこの決定に賛成しています。
久利の代になり、藩政の実権は造酒派が完全に掌握し、左京の政策はすべて廃止されたましたが、派閥内での抗争が乱闘騒ぎに発展したため、その責任を問われ、造酒たちは隠居させられます。
その結果、ふたたび人事権を握った左京は造酒派を一掃し、藩政の最高権力者となり、人件費削減策などの改革を再開しました。そして左京は1831年(天保2年)に息子小太郎の嫁に幕府の筆頭老中である松平康任の姪を迎えました。
藩の内外に盤石の体制を築いた左京でしたが、不満の残る造酒派の重臣は左京が藩の乗っ取りを計画していると久道に直訴するなど、抵抗をつづけますが、かえって久道の怒りを買い蟄居を命じられることになりました。
しかし江戸における寺社奉行と町奉行の権力争い、また老中間の権力争いもあり、寺社奉行の脇坂安董と老中・水野忠邦がこの噂(左京が仙石家の乗っ取りを策謀しており、康任がそれに加担している)を利用して、松平康任を失脚させることに成功します。
康任は左京から6000両もの賄賂を受け取っていたことなどもあり、老中辞任に追い込まれました。
(また康任は別件で密貿易を行っていたことも発覚し、永蟄居を命じられました)
幕府の裁定は1835年(天保6年)に下され、その結果、左京は獄門打ち首になり、小太郎は八丈島へ流罪になるなど、左京派は壊滅的打撃を受けました。
また藩主・久利に直接お咎めはなかったものの、出石藩は知行を5万8千石から3万石に減封となりました。
その後も出石仙石藩では抗争のしこりが残り、30年ほど藩内の政争がつづいたそうです。
なお、出石町にある家老屋敷(左京の旧屋敷)にはこのような説明がありました。
仙石騒動(せんごくそうどう)
文政七年(一八二四)江戸参勤の途中発病して急逝(きゅうせい)した藩主仙石政美(まさみつ)の後継(あとつぎ)をめぐって、主席家老(しゅせきかろう)仙石左京と老臣たちが九年間のながきにわたって対立し争った事件です。
これが幕府の知るところとなって天保六年(一八三五)左京以下三十一名の藩士は断罪され、仙石氏は五万八千石から三万石に減封(げんぽう)されました。
その後この騒動は講談や歌舞伎によって評判となり世に広く知られています。
江戸時代の三大お家騒動
仙石騒動を「江戸時代の三大お家騒動」のひとつという紹介もありましたが、「江戸時代の三大お家騒動」に分類されるお家騒動には仙石騒動のほかに加賀騒動、黒田騒動、伊達騒動の3つがあり、そのうちのどの3つを取り上げるかは諸説あるようです。
(ちなみにウィキペディアでは仙石騒動をのぞいた加賀騒動、黒田騒動、伊達騒動を「三大お家騒動」としていました)
仙石騒動が「三大お家騒動」に分類されるかはわかりませんが、江戸時代には主なお家騒動だけでも30件以上起きています。
幕末の1849年(嘉永2年)に薩摩島津藩で起きたお由羅騒動(高崎崩れ)も有名ですね。
講談における仙石騒動
こうしたお家騒動は講談や芝居となって、後世に語り継がれています。
なお、講談では仙石政美の死因を左京に頼まれた侍医が毒殺したとされますが(左京の陰謀説)、これは脚色と考えられます。当時は風邪や麻疹が流行しており、死因も病死のようです。
仙石左京の人となり
左京は財政再建のための役所のさまざまな費用を減らしましたが、藩の学校である弘道館の予算は少しも削らなかったようです。
また藩士の俸禄を借り上げる面扶持制を導入し人件費を大幅に抑えた際も、武芸師範の手当は減らしませんでした。
このように左京は緊縮財政を敷きながらも、将来への投資については堅持したようです。
ちなみに1835年(天保6年)に仙石騒動の裁定が下って、左京らの家財を差し押さえに行った役人の報告でも「武具だけは相当あったが、衣服や道具類はなく、身分の高い家にしては質素なのに驚いた。」とあり、藩の乗っ取りを画策するような人物とは思えません。