西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称される桂小五郎(のちの木戸孝允)は、「池田屋の変」につづく「禁門の変」の戦いで長州藩が敗れたため、徳川幕府のおたずね者となりました。
京都から逃げ出すことも困難な状況の中、甚助・直蔵という兄弟の手引きによって出石に落ち延びて、潜伏していました。
現在の出石町内の寺や城崎温泉にかくまっていましたが、そこも危なくなったため、兄弟は自分の家に連れ戻り、妹のスミを桂の女房にさせて家を一軒借り、「広江屋」という荒物屋を開かせて、そこで竹細工や筵や米を売っていたそうです。
その荒物屋跡に石碑が建てられています。
桂小五郎居住跡(荒物屋跡)
元治元年(一八六四)七月禁門の変に敗れた長州藩は朝敵となり桂小五郎も追われる身となりましたが、出石の町人甚助・直蔵兄弟の義侠により京都を脱出し町内各所にかくまわれていました。当家は荒物屋を営んでいた跡です。愛人の幾松も訪ずれています。潜居九ヶ月、九死に一生を得た小五郎はやがて回天の大業を為し遂げ木戸孝允と名を改め、維新の三傑と仰がれましたが、この出石こそ桂小五郎の再生の地となったのです。出石町観光協会
当時は桂は「廣江孝助(広江孝助、広江屋孝助)」という名を用いていました。また、京での恋人だった幾松(のちの木戸松子)も、やがて出石に呼び寄せています。
桂は出石に潜伏後、長州へ帰り西郷隆盛と薩長連合を結び、倒幕に活躍したのはご存知のとおりです。
維新後は、五箇条の御誓文の原案を作成したり、版籍奉還、廃藩置県など明治の基礎固めを進める上で重要や役割を担いました。
石碑はそば屋「よしむら」のとなりにあります。