大河ドラマ『八重の桜』にも登場した、八重の最初の夫である川崎尚之助は出石藩出身です。
『八重の桜』をご覧になった方ならご存知だと思いますが、会津戦争後、尚之助は現在の青森県東部に立藩した斗南藩(となみはん)に他の元会津藩士とともに移住しています。
その後、外国商人と米の取引を行うが詐欺に遭ってしまったために訴訟を起こされ、裁判中の東京で肺炎のため死去しました。
尚之助の実家である出石の川崎家は代々、出石町東條にある臨済宗・願成寺が菩提寺でした。
現在、その願成寺の前に石碑が建てられています。
出石藩出身の川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)
尚之助は天保7年、本町に住む藩士・川崎才兵衛の家に生まれます。江戸の高名な塾で洋楽を学び、同門の会津藩士・山本覚馬と出会い、維新期の数奇な運命をたどることになります。会津藩校の日新館では覚馬と共に洋楽・砲術を教授し、妹・八重とも結ばれます。新政府軍と戦った会津籠城戦では、夫婦ともども銃と大砲で最後まで奮戦しました。戦後の混乱期に八重と別れることになりますが、会津との縁を重んじ、同志のために悲壮なまでの覚悟で奔走し、尽力した人物です。 学問と義と愛に一途に生きた男の顕彰と供養のために
平成25年1月吉日 石碑建立世話人一同
じつは尚之助の出自は長きにわたって不詳だったそうですが、2012年5月に歴史研究家・あさくらゆうこさんたちの調査によって出石藩出身らしいと判明したそうです。
願成寺に残る墓籍台帳を手がかりにして、「川光院清嵜静友居士」という尚之助の戒名と一致する戒名を刻んだ墓碑が昭和40年頃まであったらしいことがわかりました。
(現在は川崎家も代々の墓も香美町に移ったそうです)
その墓碑には尚之助の死没年月日と同じ日付が記されていたため、まずまちがいなく尚之助の墓と結論づけられました。
ちなみにこの供養塔は大河ドラマ放送にあわせて2013年(平成25年)1月に建てられたものです。
町内には生家跡の案内板もありますが、現在は化粧品店になっています。