淀古城は豊臣秀吉が側室である茶々に産所として与えた城です。茶々が「淀君」と呼ばれる由来となった城でもあり、鶴松が産まれた城でもあります。いわゆる「秀次事件」の際に当時の城主であった木村重茲が秀次を弁護したことから連座の罪に問われ、城も廃城となりました。多くの資材は伏見城(指月山伏見城)建築に使用されたと伝えられています。現在、城址は宅地化が進んでおり、遺構は残っていませんが、唯一妙教寺に石碑が建てられています(住所と地図は妙教寺のものです)。
淀古城を訪問した328人の報告によれば、平均見学時間は17分、平均評価は2.33点となっています。
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淀古城に関するデータ 情報の追加や修正
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13.3 m
内郭:-- ha 外郭:-- ha
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1588年(天正16年)に豊臣秀吉は愛妾茶々の産所にあてるべく、淀城修築に着工、翌年には天守をあげたが、産まれた鶴丸が3歳で病死したため1594年(文禄3年)に破却された。このときの天守は指月山伏見城に移築されたという説もある。
畠山政長
着工 室町時代中期
1595年(文禄4年)
明智光秀、羽柴秀長
薬師寺元一、細川氏綱、三好義継、金子某、木村常陸介
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登録日:2013/11/17 17:35:51
更新日:2024/11/21 15:07:01
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