三箇城は飯盛山城の西の守りを固める支城で、三箇伯耆守頼照の居城として知られています。頼照はキリスト教の洗礼を受け、サンチョと称したキリシタン武将で、畿内一の規模と伝わる教会が建てられていました。1565年(永禄8年)には京の政変から逃れて、ビレラやルイス・フロイスが数ケ月滞在したこともあり、フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告しています。1582年(天正10年)の「本能寺の変」で三箇氏は明智光秀に与したため滅亡しました。その後は白井氏の城となりましたが、1587年(天正15年)の羽柴秀吉による禁教令(バテレン追放令)で教会とともに廃城となりました。当時は深野池に浮かぶ島に築かれていましたが、現在は三箇菅原神社の鳥居脇に「三箇城址」と書かれた城址碑が建てられています。
三箇城を訪問した119人の報告によれば、平均見学時間は16分、平均評価は1.95点となっています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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