楠城は楠氏が170年にわたって居城とした城です。6代・楠正忠、7代・楠正具は織田信長と戦い、とくに正具の代の1567年(永禄10年)には信長の命を受けた滝川一益の北伊勢侵攻が開始され、正具は最後まで信長に抵抗して大坂石山合戦で討死しました。その後は親戚筋の村田正盛が城主となり、織田信雄に仕えましたが、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」で羽柴秀吉に攻められ、処刑されました。現在城址には「丸の内」という地名が残るものの遺構はなく、城址碑と案内板が建てられています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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