勝竜寺城公園の入口脇に勝龍寺城跡の案内板があります。
勝龍寺城跡
勝龍寺城は、南北朝時代に京都に進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応(りゃくおう)二年(一三三九)に築いたといわれる。
- 所在地
- 勝竜寺・東神足二丁目地内
- 時代
- 南北朝時代~安土桃山時代
城は京都西南部に位置し、西国街道(さいごくかいどう)と久我畷(くがなわて)を同時に押さえうる交通の要所に築かれている。
応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(一四六七~一四七七)では、守護(しゅご)畠山義就(はたけやまよしなり)(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(ほそかわふじたか)(幽斎(ゆうさい))が元亀(げんき)二年(一五七一)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正(てんしょう)一〇年(一五八二)の山崎合戦(やまざきのかっせん)では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。
ところで、この城は明智光秀の娘玉(たま)(細川ガラシャ夫人)が一六歳で藤孝の子忠興(ただおき)(一六歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。
城の中心部には本丸(ほんまる)と沼田丸(ぬまたまる)があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社(こうたりじんじゃ)付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡(どるいあと)や空堀跡(からぼりあと)が残されている。
この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成四年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓(たもんやぐら)が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的(せんくてき)な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭(じょうかく)史上でも貴重なものであることが明らかにされた。
平成四年三月 長岡京市
案内板にもあるように、勝龍寺城は南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が1339年(暦応2年)に築城したといわれていますが、真偽は定かではありません。『よみがえる日本の城(19)』によれば、「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝(幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春次男頼有の末裔)」とあります。
おそらくは山城守護・畠山義就が郡代役所として築いた城で、「応仁の乱」では、西軍の乙訓地域の拠点として使われたことからも、郡代の政庁から城郭に発展した典型例として考えられます。
その後は淀古城とともに松永久秀や三好三人衆の属城となっていましたが、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、それに先立つ1568年(永禄11年)9月26日に柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、三好三人衆のひとりで三好政権における「出世頭」ともいわれる岩成友通が守る勝龍寺城を攻撃させています。
信長自身も上洛を果たした翌9月29日には5万の兵を率いて勝龍寺城の攻略に向かいます。
これは「勝龍寺城の戦い」と呼ばれ、織田方の大軍を前に友通は降伏・開城しました。ちなみに友通は勝龍寺城から退去し、翌1569年(永禄12年)には義昭の宿所を襲撃するも撃退され(本圀寺の変)、その後は信長に臣従しています。
元亀争乱のさなかの1571年(元亀2年)、細川藤孝が勝龍寺城の城主となり、天守に相当する高層建築物(殿主)が造営されるなど、それまで単郭式の城郭だった勝龍寺城を二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされます。
この改修については信長自身が命じており、この頃の勝龍寺城は槇島城とともに信長にとって山城の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われます。
この時代の予想図がありましたので、紹介します。
1581年(天正9年)に藤孝が丹後に入封して以降は、代わって村井貞勝の家臣、矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となりましたが、翌年に起こった「本能寺の変」によって明智光秀の属城となります。
「山崎の戦い」で敗走した光秀は勝龍寺城に帰城しましたが、羽柴秀吉軍の追撃を受け逃走、翌日には明智軍を破った秀吉が勝龍寺城に入城しています。
このあと秀吉はこの地域を治めるために山崎城を築いたこともあり、勝龍寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃しますが、江戸時代に入った1633年(寛永10年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築を行っていますが、1649年(慶安2年)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となりました。
現在は本丸および沼田丸跡が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備されています。