勝龍寺城の北東に位置する神足神社の敷地内に空堀や土塁が遺構として残っています。
土塁は拝殿の西側(ガラシャ通り側)にあります。
勝龍寺城の土塁と空堀
現存する土塁(どるい)と空堀(からぼり)は、細川藤孝(ふじたか)が元亀二年(一五七一)に城の大改修で造営したものです。土塁と空堀の他、土橋と横矢(よこや)の掛る土塁が残されています。神足(こうたり)神社の東側は、昭和五十九年(一九八四)に消滅しましたが、発掘調査で土塁と空堀の比高が約六メートルあること、新たに土塁下から六世紀後半の方墳である神足古墳が確認されました。
勝龍寺城外郭に位置する神足屋敷は、藤孝が国人(こくじん)神足氏の居館である神足城を勝龍寺城に組み込んだものと考えられます。
平成十二年の調査では、土塁の手前で止まる南北方向の堀と、土塁を開削する溝を確認しました。絵図にない堀はこれまでにも見つかっていますが、新たな堀の発見は城の細部を明らかにする上で貴重な手がかりとなります。このほか、菊一稲荷社で使われたとみられる灯明皿と狐の土人形が空堀から出土しています。
平成十三年三月 長岡市教育委員会
もともとは国人である神足氏の居館である神足城がこの地にあって、それを細川藤孝が勝龍寺城を拡張した際に組み込んだようです。
雑草や竹におおわれていましたが、土塁の跡を確認できました。
神足神社の案内板があったので紹介しておきます。
神足神社(こうたりじんじゃ)
旧神足村の産土神(うぶすなかみ)。式内社で「延喜式」にのる乙訓(おとくに)十九座の一つで「神足神社(こうたにのじんじゃ)」とみえる。また、文徳天皇の斉衡元年(八五四)に国の官社にあげられている。
祭神は「舎人親王(とねりしんのう)(天武天皇の子)」であるといわれている。
当社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説が残っている。〈田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。天皇は目覚められ、田村にこの神を祭る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた。〉以後、この社は「神足神社」と、田村は「神足村」と呼ばれるようになったと言われる。 長岡京市観光協会
(社)京都府観光連盟
神足神社の観光情報
住所 | 京都府長岡京市東神足2-16-15 |
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