勝龍寺城
勝龍寺城

[京都府][山城] 京都府長岡京市勝竜寺13-1


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.37(--位)
  • 見学時間:47分(--位)
  • 攻城人数:1197(149位)

沼田丸

細川藤孝が改修した際に、本丸の守りを強固にするために南西に沼田丸を築きました。

沼田丸の名前は細川藤孝の正室である沼田麝香(光寿院)の苗字をとったもので、この地には沼田氏に与えた屋敷があったと考えられています。

沼田丸跡(ぬまたまるあと)
 本丸の南西に接する沼田丸は、東西約五〇メートル、南北約六五メートルの長方形で、周囲に土塁が築かれていた。さらに堀が外側をとりまいていた。
 堀は、昭和三〇年代まで水を湛(たた)えていた西南部のものに加えて、発掘調査によって北辺と東辺にも堀があることが明らかにされた。新たに確認された堀は、いずれも幅約五メートル、深さ約二メートルのもので、石垣のない素掘りのものだった。北辺の堀内からは大きな石が二か所でまとまって発見された。これらはこの堀の北側にあったと想定される沼田屋敷などに通じる橋などの施設に使われていたと思われる。
 本丸と沼田丸の間には、両側を掘に挟まれた幅約五メートルの南北に細長い区画(帯曲輪(おびくるわ))が見つかった。これは本丸を守るための施設であろう。
 また、沼田丸内の発掘調査では、本丸と同じ構造をもつ井戸が見つかった。ところで、沼田丸の名は細川藤孝の妻麝香(じゃこう)の旧姓にちなんだもので、沼田氏に与えた屋敷があったところといわれる。
 平成四年三月長岡京市

現在は広場になっています。

さらに本丸と沼田丸のあいだには帯曲輪も見つかっています。

北辺(ほくへん)の堀(ほり)と帯曲輪(おびぐるわ)
 この堀は沼田丸の北を区画するもので、幅約五メートル、深さ約二メートルで、石垣のない素掘りのものである。堀は東端で曲がり、北方に延びる。堀の中から大きな石がまとまって出ており、堀の北方に想定される沼田屋敷へ通じる橋などがあったと思われる。
 本丸と沼田丸の間には、両側を堀に挟まれた南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。ここには本丸へ通ずる橋が架けられていたとみられる。
 平成四年三月長岡京市

また、勝竜寺城公園の中から沼田丸へは土塁をこえて行き来できるようになっていたようで、通路が見つかっています。

沼田丸への通路
 西辺土塁の中央部で、土塁の頂上にある平坦面を深さ一・五メートル堀りくぼめ、土塁が南北に分断されていた。この土塁斜面を発掘調査したところ、斜面は階段状に掘られ、二か所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。
 このことから、土塁の斜面に石を使って階段をつくり、土塁の頂上まで登り、沼田丸へ渡ったものとみられる。
 また、西辺土塁の南端で人頭大の大きな石や小石が見つかった。これらは土塁上にあった隅櫓などの建物に使われたとみられる。
 平成四年三月長岡京市

いまも土塁の上まではのぼることができます。

   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

勝龍寺城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の〝天下人〟

中の写真、図が多くて「読みやすそう」と手に取りました。家康を生んだ松平氏について、戦国大名徳川家康の苦悩、家康を支えた家族、家臣団についてなど最新の情報で詳しく著されています。大河ドラマの予習としてもいいですが、「ここはこう解釈されたのか」と復習しながらよむのも一興です。今まで定説になっている「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の家康像とは、少し違った家康像が見えてきます。

黒まめさん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る