別名 上平城、桐ヶ城、霧ヶ城、刈安城、刈安尾城
上平寺城は京極高次の先祖にあたる京極高清が築いた城です。美濃と越前を結ぶ越前海道(北国脇往還)が通る交通の要所にあり、山麓の京極氏館(京極氏上平館)の「詰の城」として機能していました。1523年(大永3年)、家臣の浅見氏や浅井氏ら国人衆が反乱を起こしたため、高清らは尾張へ逃れました。その後、北近江では小谷城の浅井氏が台頭し戦国大名化を果たしたため、京極氏は没落しました。1570年(元亀元年)に浅井長政が織田信長を裏切り敵対関係となると、長政は織田氏に対する防衛ラインとして上平寺城(刈安城)を改修して備えましたが、城を守備していた鎌刃城主・堀秀村らが織田方に寝返ったことにともない廃城となりました。京極氏館跡に建てられた伊吹神社の脇に登山道入口があります。また、山麓にある上平寺集会所に案内板があります。
上平寺城を訪問した128人の報告によれば、平均見学時間は2時間18分、平均評価は3.43点となっています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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