福山城の北側にある、備後護国神社境内に水野家と親交のあった宮本武蔵が福山を訪れた際に腰掛けたといわれる石があります。
宮本武蔵腰掛石の由来
元和元年(一六一五)大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。寛永年中(一六二四〜一六二九)武蔵は福山城に勝成を訪う。武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり。水野家二番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗應。その時、武蔵が将監屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石として伝承されていた。
水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第二家老下宮氏の屋敷となる。明治四年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引拂うにあたり、この石の由緒によりこれを阿部神社に寄進したものである。
――原文・平井隆夫―― 鷹の羽会
もともとは現在の福山駅の南側、福山ニューキャッスルホテル周辺にあった家老・中山将監の屋敷の庭園にあったと伝えられています。
なお、宮本武蔵は大坂の役では水野家の傘下で行動しており、中山将監の三男(三木之助)を自らの養子に取るなどじっさいに深い縁がありました。