福山城の本丸には城主の居館である本丸御殿がありました。
本丸御殿は多くの御殿建築と同様に公的な「表向」と私的な「奥向」から構成されていました。
筋鉄御門から入ると左正面に表向跡(伏見西殿跡)の石碑が建てられています。
こちら側が式台(玄関)で、その左手に内玄関がありました。
式台の正面は広間(虎の間)で、この東側に渡り廊下で繋がれて大書院(皇帝の間)が建てられていました。
大書院の南側には御風呂屋(現在の御湯殿)があり、往時はこれも渡り廊下で繋がれていました。一方、大書院の北側には表居間(伏見御殿)があり、こちらも大書院と渡り廊下で繋げられていました。
この他に小書院(鶉の間)、表台所、料理間などがあり、これらの礎石は部分的に残されています。ただし整備状況は悪く、礎石の並びを体系的に把握するのはむずかしいです。
また、奥向は表向の北側(天守の南側)に位置し、奥居間、奥台所、長局、などで構成されていました。
ちなみにこの本丸御殿に居住したのは、初代藩主である水野勝成と、二代藩主・勝俊のみで、三代藩主・勝貞は三の丸東側に新たな御殿(三の丸御屋形)を造営して移り住んだため、居住施設である奥向部分は江戸後期に取り壊されています。
表向の建物は式典などに用いられたので、その多くが明治時代まで残されました。