日隈城は、1594年(文禄3年)に豊臣氏直轄地代官として入封した宮城豊盛によって築かれた城です。翌年入封した毛利高政が1596年(慶長元年)に大規模な改築を行い、このときに5重の天守や3重の月見櫓などが増築されたと伝わっています。「関ケ原の戦い」では、毛利氏は西軍につきましたが(この毛利氏は中国の毛利氏とは血縁関係なし)、中津城主・黒田如水が重臣の栗山利安を送って和議を結び開城させています。その後、日隈城は丸山城主の小川氏の預かりとなりましたが、一国一城令によって、1616年(元和2年)頃に廃城になりました。現在は亀山公園となり、山上には日隈神社が建立されています。遺構としては、大手門跡の階段をのぼった先に石垣による桝形虎口が残っています。
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112.1 m( 30 m)
内郭:-- ha 外郭:-- ha
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『佐伯毛利家文書』によると、内部5階、地下1階で外観については不明。天守が築かれたのは1596年とされる。
宮城豊盛
着工 1594年(文禄3年)
1616年(元和2年)
毛利高政
毛利氏 (藤原氏)
曲輪、石垣、桝形虎口
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登録日:2016/08/20 16:54:05
更新日:2024/10/09 15:09:49
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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