福知山城の天守です。1871年(明治4年)に廃城となったため、この天守は1985年(昭和60年)に絵図に基づき外観復元されたものです。
平面図などをもとに藤岡通夫・東京工大名誉教授の設計によって大小の天守と続櫓が復元されましたが、古写真などの史料がないため、厳密な外観復元ではないそうです。
入口は地階にあります。
内部は郷土資料館になっていて、福知山城に関する資料や福知山地方の歴史・文化財が紹介されていますが、撮影不可となっています。
最上階からは福知山の城下町だけでなく、北近畿最大河川の由良川や大江山まで望むことができます。
(ちょっと風が強いですけどね)
天守前にある案内板です。
福知山城と城下町
福知山のまちは、天正(てんしょう)7年(1579)に丹波を平定した明智光秀(あけちみつひで)が城を築き、城下町整備に着手したことではじまったものと伝えられ、福知山城も光秀ゆかりの城として知られています。城は明治の廃城令により本丸・二の丸の建物が取り壊され堀も埋められ、天守閣周辺の石垣しか残されていませんでした。しかし、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建され、福知山の美しい四季を背景に往時の姿をしのばせています。
城地は市街地の南から北東に向かって突き出した丘陵上(標高約40m・幅約100m)に位置し、周囲を由良川(ゆらがわ)・土師川(はせがわ)、丘陵で四方を守られた要地にあります。中世には天田郡の豪族(ごうぞく)、塩見氏がこの地に横山城と称する山城を築いたといわれています。
丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張(なわば)りを行い、治政(ちせい)に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台(てんしゅだい)の石垣に利用したと伝えられています。一方ではこれらの石塔は城のお守りとしたのではないかとも言われています。天守の一部は、城再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀の時代に造られたことが確認されています。
光秀は城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(じしせん)(税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられています。その期間は短いものでしたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社(ごりょうじんじゃ)に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡(うた)われるなど、広く永く市民に親しまれています。
光秀の丹波平定後、城には家臣明智秀満(あけちひでみつ)が入りました。光秀没後は羽柴秀長の家臣が管理したと言われ、その後杉原家次(すぎはらいえつぐ)、田中吉政(たなかよしまさ)、小野木重勝(おのぎしげかつ)と続きました。関ケ原の合戦後、有馬豊氏(ありまとようじ)、岡部長盛り(おかべながもり)、稲葉紀通(いなばのりみち)、松平忠房(まつだいらただふさ)、朽木種昌(くつきたねまさ)と交代し、その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備されたのは、有馬豊氏の時代と推定されます。城郭プランと天守閣
福知山城や城下町の絵図は有馬・稲葉・松平・朽木各時代のものが残されています。これらのうち、松平時代(1649~1699)の絵図をもとに、具体的な様子をみてみましょう。
城郭部は横山丘陵(よこやまきゅうりょう)先端の地形を利用しています。東は法川を利用した大堀を、西は堀と土居を、南は堀切を、北東側は由良川を堀と見立て、城下四方を防御する「総郭型(そうくるわがた)」(総構(そうがま)え)の構造となっています。丘の先端に天守台と本丸を置き、二の丸・伯耆丸(ほうきまる)(三の丸ー現在市役所の南にある丘)が西へと続きます。南側の低地には「御泉水(ごせんすい)」とよばれる庭園と蔵・馬屋敷、その西側には内記丸(ないきまる)(西の丸)が配置されていました。このうち石垣を持つのは丘陵上の城郭主要部のみでした。再建された天守閣は大天守、小天守、続(つづ)き櫓(やぐら)から構成されています。外観は3層ですが、内部は4階となっています。古文書や門・玄関の配置から、天守閣は西向きに建てられており、西から見るのが正面の姿といえます。福知山城の石垣
石垣は、表土を削り溝状に岩盤を掘り込んで、安定した根石(ねいし)を据えるよう工夫されています。図(「天守部分現存石垣配置図」)は現存の石垣を示したものですが、天守台(A部・B部・C部)部分は、すべて岩盤上に積み上げられたもので、内部はこぶし大から人頭大の栗石(くりいし)でびっしりと充填されていました。本丸のD部は、岩山の斜面に積み上げられた構造となっています。
福知山城に現存している石垣は、大小の自然石(野面石)を用いた「穴太積(あのうづ)み」技法によって積まれています。天守台・本丸の石垣は、発掘調査の結果から、3回の増築が行われていることが確認されています。
また、石垣には五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの石垣が大量に転用されています。現在、石垣に組み込まれているもが約90点、天守台石垣内部から出土したもの(石垣内部の栗石として使われていたもの)が約250点、近代以降の積み直し部分には約70点が使用されており、その多くはA部に集中しています。年号が刻まれているものでもっとも古い石塔は延文(えんぶん)4年(1359)、新しいものは天正(てんしょう)3年(1575)です。