久留米城
久留米城

[福岡県][筑後] 福岡県久留米市篠山町444


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.25(--位)
  • 見学時間:47分(--位)
  • 攻城人数:933(178位)

篠山神社(本丸跡)

久留米城は江戸時代には久留米藩の藩庁が置かれていましたが、1874年(明治7年)の廃城令によって廃城処分となり、本丸御殿を含むすべての建物は撤去されました。
その後、1877年(明治10年)に本丸御殿跡地に旧藩士・領民によって有馬家への追慕・感謝のために篠山神社が建立され、現在も篠山神社の神殿・拝殿が置かれています。

本丸の規模は東西約96.4m、南北約156.4mで、石垣の高さは約14〜15mとなっています。本丸の中央には本丸御殿があり、それを取り囲むように7基(7棟)の櫓が上げられ、ほぼすべてが多門櫓で連結されていたそうです。

冠木門跡を通って本丸跡に入ると石碑があります。

案内板もあります。

久留米城趾
 戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって興亡の歴史を綴りながら、元和七年(一六二一)有馬豊氏丹波福知山より転封入城し、以降廃藩に至るまで十一代二百五十余年の間、有馬家累代の居城として藩府が置かれていました。
 本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活用したすこぶる険要の地にあります。築城法は平山多聞(たもん)造りで、高い白土の城壁にそびえたつ二層と三層の七つの櫓(やぐら)があり、本丸東南隅の三層建の巽(たつみ)櫓は壮大な偉容を誇っていました。
 現在は石垣だけが残り、城内には有馬三氏を祀る篠山神社や、有馬家資料を展示する有馬記念館があります。春は花見、六月はしょうぶ、八月二十五日には鈴虫祭と、市民の憩いの場となっています。
KURUME CASTLE RUINS
During the turbulent period of the 15th century, the rioh and powerful families of the Kurume area repeatedly struggled for this castle. In 1621, Toyouji Arima seized the castle and took over as lord of this district. Arima originally came from Tanba Fukuchiyama, located in the Kansai area near Kyoto.
The Arima Family resided in this castle and established control over the Kurume area from here. His family continued for 250 years through to the 11th lord when the clan (feudal) system was abolished during the Meiji Restoration.
Favored geographically, this castle had a natural protective defence in the Chikugo River which flows behind the castle grounds. The method used in the castle's construction is known as 'Hirayama Tamon Tsukuri', a structure utilizing the natural defences of a hillside. Instead of having one main keep, the castle was protected by 7 low buildings, each 2 or 3 stories high, those in the immediate area of the castle being connected by long hallways with small windows at various intervals which were originally used for arrows and later for firearms as well. The tallest tower was located at the southeast corner of the castle grounds, and stood proud and dignified over the castle grounds. Because of its geographic location and solid construction, the castle was very dillicult to attack from the outside.
One cannot see the actual castle or former watchtowers, but the stone walls remain to remind one of the castle's large scale. Currently standing on the castle grounds are the Sasayama Shrine and the Arima Memorial Hall. There are historical relics on display in the memorial hall for your viewing pleasure.

このような城址内の案内地図があるのは親切ですね。
本丸内はそれほど広いわけではありませんが、7基あったとされる櫓はすべて破却されて石碑しかないので(近づかなければわからない)、とても助かりました。

篠山神社です。

この家紋は「有馬竜胆車」といって、摂津有馬氏の家紋だそうです。
摂津有馬氏の家紋は「有馬巴」と呼ばれる三つ巴紋が有名ですが、この竜胆車紋は6代藩主の有馬則維(のりふさ)が京都久我家(村上源氏の宗家)から許可されて使用するようになったそうです。

ちなみに藩校(明善堂)の流れをくむ福岡県立明善高等学校の校章にも竜胆車紋が使われています。

   

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図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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