久留米市教育委員会によって作成された久留米城跡の公式パンフレットです。
久留米城跡
久留米城は江戸時代を通じて、筑後8郡を支配した有馬氏の居城でした。今は本丸を残すばかりですが、往事は周囲を7棟の櫓と二重の多聞(長屋状の建物)で囲んだ多聞造の城(したがって天守閣が無い)で、内には御殿が広がっていました。明治4年に廃城となり、その後全ての建物が壊されてしまいましたが、明治12年には、藩主を祭神として篠山神社が創建されました。傍らには有馬氏に関する資料を展示する有馬記念館もあり歴史を偲ぶ、清閑な場所となっています。
廃城前の久留米城
久留米城は明治5年に売却が決定し、8年には全ての建物が解体されます。その間の最後の西からの姿です。右に天守の役目を持った三層の巽櫓(たつみやぐら)、左に西南の隅櫓が見え、全面に内堀が広がっています。表紙の天野耕峰の絵と比べて見てください。
城郭の全体
初代藩主有馬豊氏が入国した元和7(1621)年には、久留米城は廃城同然だったといいます。早速修築が開始され、豊氏の代には城郭が拡大され、それまで東向きであった城の構えが南向きに変えられます。さらに、本丸周辺の堀や侍屋敷の建設が進められ、2代忠頼の代には外堀を中心に浚渫や修築が行われます。4代頼元の代にはさらに侍屋敷替えと拡大などが続きます。左の城下図は、延宝8年(1680)の物ですが、この頃には、その後を通じての久留米城と城下町の姿が整っています。
図の左上の方に、今も残る本丸が描かれています。その下(南)に、堀で区画された二の丸・三の丸が続き、さらにその外側に外郭が広がっていることが分かります外郭の東南の隅が、現在の市役所・商工会議所がある辺りです。
久留米城の歴史は戦国時代に遡り、高良山の座主良寛の弟麟圭が拠ったとの記録も見えます。豊臣秀吉の時代には、久留米周辺3万5千石程を領した小早川(毛利)秀包の居城となり、関ヶ原の戦いの時代には柳川を主城とした田中吉政の支城ともなりました。
今私達が見る姿は有馬氏時代の本丸の部分だけとなっています。そもそもこの城は筑後川に面した小高い丘を利用した堅固な要害でした。有馬氏3代藩主頼利の時代まで整備拡張が続けられ、本来の城域は、東は現久留米大学の西半まで、南は商工会議所・市役所のあたりまで広がるものでした。この中に、堀で区画されたニ・三の丸、外郭が設けられ、家老を初めとする上級の家臣たちの住まい、藩政上必要な役所などがありました。さらにその周囲は、下級の武士達の住まい、そして城下町が広がっていたのです。
さて、本丸の内部には御殿が設けられていました。そこは二の丸に設けられた御殿と共に、大名である有馬家の日常の住まいであり、同時に藩の政治の中心となった場所なのです。登城の日には麻上下で正装した藩士達が出入りし、藩主の国入りなどの大きなお祝いの日には、藩内の庄屋や主だった商人なども招かれて「御能拝見」が催されたりもしました。
「歴史散歩」は久留米市のさまざまな文化財を紹介したパンフレットです。