別名 亀ヶ城、和泉城、花見ヶ城、小松ヶ城、住吉ヶ城、水夫ヶ城、弓場ヶ城、捨殿ヶ城、城山
出水城は島津氏9代・島津忠国の弟である島津用久が城主をつとめた城です。用久が薩摩守を称したことから「薩州家(薩州島津家)」と呼ばれ、代々出水城を本拠としました。島津忠辰が城主の1593年(文禄2年)、朝鮮出兵(文禄の役)において島津義弘に従うよう豊臣秀吉に命じられたものの、これに従わず薩州家は改易となります。一時は秀吉の直轄領になりましたが、「慶長の役」での島津氏への恩賞として1599年(慶長4年)に返還されると、島津忠恒は地頭として本田正親を任命しました。現在西麓にある城山墓地公園に標柱がありますが、城址の大半が立入禁止となっています。なお江戸時代には薩摩藩は領内の116か所に麓(外城)を設置し、出水麓は最初に築かれ、また最大の規模を誇っていました。現在も周囲は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、武家屋敷通りには大河ドラマ「篤姫」の撮影にも使われた竹添邸や、税所邸が残っています。
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260年近く泰平な世の中であった江戸時代、徳川幕府に付いて知りたくこの本を手にした。
徳川政府(徳川幕府の事)とか、禁裏(朝廷の事)とか、聞き慣れない言葉が所々に出てきて最初は違和感を感じ、アメリカの研究者が書かれたものを翻訳されたものなので仕方がないと思っていましたが、最後まで読み終えると、「そうだったのか」と目から鱗が落ちた気持ちになります。
まとめとしては、徳川政府が把握する「表」の歴史と各大名が把握している「内証」の歴史は違う事をお互いに容認することで争い事のない泰平な世が260年近く続ける事が出来たようです。しかし、諸外国の進出により、この状況を理解させられなかったことから幕府の権威が失墜し、明治維新に繋がったということですが、それに繋がる研究事例がよくまとめられていました。
以上の様に、何故江戸時代が260年近くに渡り泰平な世だったかを理解するのにベストな一冊かと思います。
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