多喜山城はいわゆる「元亀争乱」の際に六角氏などの抵抗勢力に備えるために、織田信長の家臣である佐久間信盛が築城したと伝わっていますが定かではありません。この地は奈良興福寺領であったことからそれ以前に地頭代によって城が築かれていたという説もあります。現在城址は公園として整備されており、山麓からは「ふるさと創世事業」によって作られた721段の石段がつづいています。城が築かれた日向山は東海道、中山道を見下ろす要衝にあり、山頂からは合戦の舞台となった野洲川を眺めることができます。また東西にある虎口はいずれも桝形構造となっており、そのほか土塁や櫓跡などが残っています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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