海部城は海部左近将監友光によって築かれた城で、土佐の長宗我部氏に対する阿波国最前線の城でした。1571年(元亀2年)に長宗我部元親の末弟である島弥九郎親益の船が浦戸港より出帆するも、強風を避ける為に城下の入江(那佐湾)に停泊した際に、友光は手勢を率いて親益を討ち取ってしまい、これを期に元親は侵攻し落城させました。羽柴秀吉による四国征伐によって蜂須賀家政が阿波へ入封すると、阿波九城のひとつとして大多和長右衛門正之が城代となり改修させました。その後、中村右近大夫重友、益田宮内一政らが城番となりましたが、「一国一城令」により廃城となりました。かつてこの地は島で、現在城址には曲輪跡や土塁を確認できるほか、城址碑が建てられています。
海部城を訪問した107人の報告によれば、平均見学時間は30分、平均評価は2.70点となっています。
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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