別名 岡崎城、林崎城
撫養城は小笠原氏の居城と伝えらていますが、詳しいことはわかっていません。豊臣秀吉による四国征伐の後は蜂須賀家政の家臣である益田正忠が城番を務めた城です。川島城などとともに徳島城の支城で、阿波九城のひとつです。また、「流れ公方」と呼ばれる10代将軍・足利義植、さらには14代将軍・足利義栄の両名がこの城において最後を遂げている、足利将軍家とゆかりのある城です。二の丸跡にある妙見神社裏に石垣が残っていますが、これは築城当初のものではなく1830年(天保元年)に神社が建てられた際に築かれたもののようです。現在は妙見山公園として整備されており、頂上近くには模擬天守が建てられています。
撫養城を訪問した311人の報告によれば、平均見学時間は26分、平均評価は2.45点となっています。
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妙見山公園駐車場(無料、30台)
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260年近く泰平な世の中であった江戸時代、徳川幕府に付いて知りたくこの本を手にした。
徳川政府(徳川幕府の事)とか、禁裏(朝廷の事)とか、聞き慣れない言葉が所々に出てきて最初は違和感を感じ、アメリカの研究者が書かれたものを翻訳されたものなので仕方がないと思っていましたが、最後まで読み終えると、「そうだったのか」と目から鱗が落ちた気持ちになります。
まとめとしては、徳川政府が把握する「表」の歴史と各大名が把握している「内証」の歴史は違う事をお互いに容認することで争い事のない泰平な世が260年近く続ける事が出来たようです。しかし、諸外国の進出により、この状況を理解させられなかったことから幕府の権威が失墜し、明治維新に繋がったということですが、それに繋がる研究事例がよくまとめられていました。
以上の様に、何故江戸時代が260年近くに渡り泰平な世だったかを理解するのにベストな一冊かと思います。
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