撫養城は小笠原氏の居城と伝えらていますが、詳しいことはわかっていません。豊臣秀吉による四国征伐の後は蜂須賀家政の家臣である益田正忠が城番を務めた城です。川島城などとともに徳島城の支城で、阿波九城のひとつです。また、「流れ公方」と呼ばれる10代将軍・足利義植、さらには14代将軍・足利義栄の両名がこの城において最後を遂げている、足利将軍家とゆかりのある城です。二の丸跡にある妙見神社裏に石垣が残っていますが、これは築城当初のものではなく1830年(天保元年)に神社が建てられた際に築かれたもののようです。現在は妙見山公園として整備されており、頂上近くには模擬天守が建てられています。
撫養城を訪問した285人の報告によれば、平均見学時間は24分、平均評価は2.32点となっています。
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妙見山公園駐車場(無料、30台)
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三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。
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