浅井長政が小谷城とともに滅亡した1573年(天正元年)、その戦功により織田信長から浅井氏の旧領を与えられた木下藤吉郎は、以後「羽柴秀吉」と名乗り、はじめて城持大名に出世しました。
小谷城は山城だったため、領内の統治には向いていなかったこともあり、北国街道の宿場町であり、琵琶湖の港町でもあった「今浜(いまはま)」の地を信長の名から一字拝領し「長浜」に改めて、長浜城を築きました。
このとき小谷城で使われていた資材を運んで流用しています。
いわゆる水城(湖城)で、城内に湖水を導き入れ、直接船の出入りができるようになっていたそうです。
本能寺の変ののち、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家は、甥の柴田勝豊を長浜城主とするも、半年後には勝家と対立した秀吉に攻められ落城しました。
賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、その後も徳川家の譜代大名である内藤信成・信正親子が城主を務めましたが、1615年(元和元年)に廃城になりました。
長浜城の資材の大半は1616年(元和2年)から開始された彦根城の第3期工事に流用されており、彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられています。
現在、城址には市立長浜城歴史博物館が建てられています。
これは1983年(昭和58年)4月に、東京工業大学名誉教授・藤岡通夫工学博士の設計指導のもと、犬山城や伏見城をモデルにして模擬復元されたもので、形状も位置も当時のものとは異なります。
(そもそも当時、天守があったかもわかっていません)
館内では豊臣秀吉や城下町である長浜市の文化についての資料が展示されています。
企画展も頻繁に開催されているようです。
(館内のほとんどが撮影不可なのは残念ですが)
最上階には廻縁がつくられているので、四方を見渡すことができます。
彦根城の方角らしいんですけど、よく見えないですね。
手前が山本山、その右にうっすら見えているのが賤ヶ岳古戦場です。
非常に見晴らしがいいので、晴れた日の景色は最高です。