高島城
高島城

[長野県][信濃] 長野県諏訪市高島


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.40(79位)
  • 見学時間:50分(91位)
  • 攻城人数:2310(63位)

諏訪大社

諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4ヶ所にある神社で、全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社です。
旧称は「諏訪神社」で、通称として「お諏訪さま」・「諏訪大明神」等とも呼ばれています。

上社 本宮拝殿

諏訪湖を挟んで、以下の二社四宮の境内が鎮座しています。

上社 (かみしゃ)本宮 (ほんみや)(長野県諏訪市中洲宮山)
前宮 (まえみや)(長野県茅野市宮川)
下社 (しもしゃ)秋宮 (あきみや)(長野県諏訪郡下諏訪町武居)
春宮 (はるみや)(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原)

上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっています。また、「上社・下社」とあるものの、社格に序列はありません。

下社 秋宮

社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えています。社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭が有名です。

戦国時代にこの地をおさめていた諏訪氏は上社の「大祝(おおほうり)」(神体と同視される、いわゆる現人神)で、祭神・建御名方神の後裔とされています。
古代から代々、上社の大祝を務め、中世に武士団化しました。当初は甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にありましたが、1542年(天文11年)には手切れとなり、武田信玄による諏訪侵攻が行われ、諏訪地方は武田領国化されます。

その後、信玄によって1565年(永禄8年)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られたとされます。信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられています。

また、江戸時代には、江戸幕府第3代将軍、徳川家光によって上社に朱印1,000石・下社に500石が安堵されており、また高島藩から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)、会津藩主・保科正之から上社100石・下社50石が寄進されたという記録が残っています。

諏訪大社の観光情報

住所(上社)本宮:長野県諏訪市中洲宮山1
前宮:長野県茅野市宮川2030
住所(下社)秋宮:長野県諏訪郡下諏訪町5828
春宮:長野県諏訪郡下諏訪町193
URLhttp://suwataisha.or.jp/
   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

高島城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る