高島城は日根野氏が移封されたのちは諏訪氏が明治まで城主をつとめました。
戦国時代、諏訪の地は諏訪神社の大祝(おおほうり)である名門・諏訪氏の支配下にありましたが、1542年(天文11年)、武田信玄(晴信)の侵攻を受けて諏訪頼重は切腹となり、諏訪氏の宗家は滅亡しました。
しかし頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠は、武田氏支配下の中で神官として生き残り、1582年(天正10年)に武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍によって滅ぼされ、さらに同年6月、信長が「本能寺の変」で横死すると、頼忠は自立して諏訪氏を再興します。
その後、信濃に侵攻してきた家康軍と戦ったが、やがて家康と和睦し、その家臣となりました。1590年(天正18年)、豊臣秀吉によって徳川氏が関東に移封されると、頼忠も家康に従って諏訪を離れ、武蔵国奈良梨(のち、上野国那波郡惣社へ移封)に所領を与えられました。
代わってこの地に入ったのは日根野弘就の子・高吉で、そして1600年(慶長5年)には高吉の子・吉明が家督を継いだが、「関ケ原の戦い」後の1601年(慶長6年)に下野壬生藩に移封(一説には減封)されます。
同年、諏訪頼忠の子・諏訪頼水が旧領・高島に復帰し、再び諏訪氏による支配がはじまりました。
所領は当初は2万7,000石、のち大坂の陣に参陣した第2代藩主・忠恒はその功績により1618年(元和4年)に5,000石を加増され、3万2,000石となっています。第3代藩主・忠晴の時代に忠恒の遺言により忠晴の弟の頼蔭と頼久にそれぞれ1,000石を分知して3万石となった。以後、諏訪氏の支配で明治時代に至っています。
1836年(天保7年)の天保騒動では甲府勤番の命を受けて一揆鎮圧のために甲州に派兵。天狗党の乱では1864年(元治元年)11月に諏訪藩兵は松本藩兵と共同して中山道の和田峠で天狗党と交戦したが、敗北しています(和田嶺合戦、樋橋戦争)。
1868年(明治元年)の戊辰戦争では新政府軍に与し、甲州勝沼の戦いや北越戦争・会津戦争に参戦しました。
1871年(明治4年)の廃藩置県により高島県となるも、その後、筑摩県を経て長野県に編入されました。なお、諏訪氏は1884年(明治17年)子爵となり華族に列せられています。
高島城の歴代城主(高島藩主)
歴代 | 西暦(和暦) | 城主 | メモ |
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1 | 1590年(天正18年) | 日根野高吉 | 信濃諏訪藩(高島藩)の初代藩主。美濃国の生まれ。はじめ美濃斎藤家に仕えたが、父・弘就の代から織田家に仕えたのち、豊臣秀吉の部将となる。小田原攻めの戦功により諏訪を与えられ、高島城を築城した。1600年(慶長5年)6月、「関ケ原の合戦」の直前に死去し、慈雲寺(下諏訪町)に葬られた。 |
2 | 1600年(慶長5年) | 日根野吉明 | 高吉の長男。高吉の跡を継いで高島城主となり、「関ケ原の合戦」では東軍に与して会津征伐では徳川秀忠軍に従軍して宇都宮に赴く。しかし、祖父の弘就が西軍に属して取り潰された関係や、若年という理由から下野壬生1万2000石(一説には1万5000石)に減封となる。 |
3 | 1601年(慶長6年) | 諏訪頼水 | 信濃諏訪藩の初代藩主。武田氏に滅ぼされた諏訪氏を復活させた諏訪頼忠の長男。「関ケ原の合戦」後に諏訪を与えられ、旧領復帰した。逃散した領民を呼び戻し、新田開発を奨励するなどして領内の回復に力を入れ、その後の藩政の基礎を築いた。1616年(元和2年)、改易となった松平忠輝の身柄を預かり、その後、諏訪氏は忠輝の面倒を生涯見ている。1634年(寛永11年)、第3代将軍・徳川家光から杯と饗応を受けるという厚遇を受けるほどの信任を受けた。1640年(寛永17年)、忠恒に家督を譲って隠居し、翌年1月14日に72歳で死去した。 |
4 | 1640年(寛永17年) | 諏訪忠恒 | 頼水の長男。「大坂夏の陣」に徳川軍に属して出陣し、天王寺の戦いなどで奮戦した。その功により、戦後五千石の加増を受ける。藩主になってからは父・頼水の施策を受け継いで干拓や新田開発を進め領内の生産力増大に努めた。1657年(明暦3年)9月28日に63歳で死去。 |
5 | 1657年(明暦3年) | 諏訪忠晴 | 忠恒の長男。宗門改めの実施、知行制度の整備など藩の支配機構を整え、藩体制の確立に努めた。また文芸にも秀で、絵画を得意としたほか、『本朝武林小伝』などの著作がある。1695年(元禄8年)3月2日に57歳で死去し、跡を三男の忠虎が継いだ。 |
6 | 1695年(元禄8年) | 諏訪忠虎 | 学問に優れていた経緯から、学問好きであった将軍徳川綱吉の師事を受けた。郡中法度、家中法度を出したほか、郡内の林改をおこなった。父同様に好学の藩主でもあり、特に俳諧に優れ「闡幽」と号した。1731年(享保16年)7月2日に69歳で死去。 |
7 | 1731年(享保16年) | 諏訪忠林 | 分家の旗本、諏訪頼篤の二男で、忠虎の実子が早世したため、養子に迎えられ藩主となる。生来から病弱だったため、藩政から逃避して学問の世界にのめり込んだ。しかし学者、特に詩人としては一級者であり、太宰春台や釈万庵らもその才能を認めたという。1763年(宝暦13年)8月23日、四男の忠厚に家督を譲って隠居し、1770年(明和7年)5月27日に68歳で死去した。 |
8 | 1763年(宝暦13年) | 諏訪忠厚 | 父の隠居を受けて家督を継ぐ。政務に関心を示さない暗愚無能の人物で、そのため藩政はもっぱら2つの家老家に任せる体制となっていた。その家老家が藩政を巡って争い、跡目争いまでが絡んだ御家騒動(二之丸騒動)に発展し、事態の収拾のため隠居した。1812年(文化9年)、67歳で死去した。 |
9 | 1781年(天明元年) | 諏訪忠粛 | 忠厚の長男。御家騒動の後を受けて藩主となる。灌漑用水体系の再編成を行い、耕地の開発を進めるなど、藩政改革を行い、ある程度の成果を収めた。1803年(享和3年)には藩校・長善館を創設して、藩士子弟の養育や藩医を長崎に留学させて蘭学を学ばせるなど、学問も積極的に奨励した。1816年(文化13年)11月21日、長男の忠恕に家督を譲って隠居し、1822年(文政5年)6月28日に死去した。 |
10 | 1816年(文化13年) | 諏訪忠恕 | 正室は松平定信の娘である烈姫。藩政においては藩財政再建を目指して検地や諏訪湖の治水工事、養蚕業の奨励における産業発展などをおこなっていずれも成功したのだが、治世中における連年の凶作や江戸藩邸の焼失により藩財政は悪化した。しかもこのような不幸が重なったため、1824年(文政7年)には高島藩で唯一といえる百姓一揆を引き起こしたという不名誉な藩主となった。このような失意の中で、1840年(天保11年)5月4日に長男の忠誠に家督を譲って隠居し、1851年(嘉永4年)5月1日に死去した。 |
11 | 1840年(天保11年) | 諏訪忠誠 | 松平定信を外祖父に持ち、寺社奉行、若年寄、老中など幕府の要職を歴任し、老中に就任した1864年(元治元年)には和田峠で武田耕雲斎率いる水戸天狗党を迎撃をしたが、突破されている。第二次長州征伐に反対して老中を罷免された。1868年(慶応4年)5月24日に隠居し、養嗣子とした甥の忠礼に家督を譲った。 |
12 | 1868年(明治元年) | 諏訪忠礼 | 信濃諏訪藩の第10代(最後)の藩主。分家、諏訪頼威の二男で、忠誠の男子が早世したため養子に迎えられ藩主となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で知藩事となり、1871年(明治4年)の廃藩置県で高島県知事となる。同年11月20日、高島県廃止とともに免官され、東京へ移った。病弱で、1878年(明治11年)10月10日に26歳の若さで死去した。 |