高島城の天守についての歴史をまとめました。
かつて1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、日根野高吉によって築かれた高島城の天守は独立式望楼型3重5階でした。
(明治初頭に撮影された写真にその姿が記録されています)
高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭の特長が色濃く反映されており、初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状で、2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられていました。
各所に華頭窓が用いられ、優美な天守であったようです。また、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺(こけらぶき)であったことも高島城の大きな特徴でしょう。
1871年(明治4年)の廃藩置県により高島県となり、しばらくは県庁舎として利用されましたが、1875年(明治8年)に天守以下の建造物は破却もしくは移築されました。
それから100年ほど経った、1970年(昭和45年)に本丸に天守・櫓・門・塀が復元されました。
現在の天守は窓の大きさや位置などの細部が異なり、屋根も柿葺ではなく銅板が葺かれているため、復興天守の扱いとなっています。
内部は資料館となっており、高島城ゆかりの資料が展示されています。
最上階の展望コーナーからは諏訪湖を一望できるだけでなく、天候がよければ富士山の姿を見ることができます。