寿能城は岩槻城主・太田資正の四男、潮田資忠によって築かれた城です。1564年(永禄7年)に北条氏が資正の留守中に長男・氏資を調略し資正の追放に成功すると、資忠は兄に従い北条氏に属しました。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「小田原征伐」では資忠と資勝父子は小田原城で戦死し、寿能城は村民の避難所となっていましたが重臣の北沢宮内と加藤大学らの奮戦も虚しく落城し、婦女の多くが見沼に身を投げました。現在城址は宅地化のため遺構はほぼ失われていますが、物見櫓跡が寿能公園となっており、資忠の墓所があります。また見沼代用水を越えた大和田公園は出丸が置かれていた場所で、梅園や日本庭園の近くにある雑木林に土塁と空堀の遺構を確認できます。
寿能城を訪問した155人の報告によれば、平均見学時間は16分、平均評価は2.12点となっています。
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