月山富田城は戦国時代、山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった城です。
もともとは歴代の出雲国守護職の居城で、1396年(応永3年)から1566年(永禄9年)は尼子氏の居城でした。
尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い、尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、その孫にあたる尼子晴久の代には山陰・山陽8カ国守護の大大名となりました。
天然の地形を利用した難攻不落の城でしたが、1566年(永禄9年) に毛利元就によって攻め落とされ、以後は毛利氏の城となります。
毛利領となって以降は城代として福原貞俊、口羽通良、天野隆重らが居城し、尼子再興を目指す山中幸盛(山中鹿介)らに攻撃されますが、これを退けました。
1600年(慶長5年)以降、関ケ原の戦いでは東軍に与した堀尾吉晴が城主となりましたが、1611年(慶長16年)に堀尾忠晴が松江城に移ったため廃城となりました。
1934年(昭和9年)に国の史跡に指定されています。
月山富田城の構造
月山富田城は月山(吐月峰、標高191.5m)の山上に本丸をおく典型的な山城です。
南東以外の三方は急峻な斜面であり、北側を正面とし、山麓部から山頂部へ曲輪を連ねる「連郭式」の縄張となっています。
城への進入路は、北麓の菅谷口(すがたにぐち)からの大手道(おおてみち)、富田橋を渡った正面の御子守口(おこもりぐち)からの搦手道(からめてみち)、南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの裏手道(うらてみち)の3か所のみで、すべての進入路は山腹の「山中御殿」に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である山頂部につながっています。
現存する古絵図「富田月山城絵図」には石垣や瓦葺きの櫓などが描かれていますが、これは1600年(慶長5年)に入封した堀尾氏による改築と推定されています。
尼子氏・毛利氏が城主であった時代の姿は定かではありません。
安来市観光協会による紹介文
安来市観光協会から月山富田城の紹介文を提供いただきました。
月山の一帯にあり、山陰・山陽十一州を手中に収めた尼子氏歴代が本城とし山陰・山陽制覇の拠点とした月山富田城は、その規模と難攻不落の城として、戦国時代屈指の要害でした。また艱難(かんなん)辛苦に耐える悲運の武将・山中鹿介の出た城として有名です。 この城を築いたのは、保元・平治の頃(1156年~1159年)、平家の大将悪七兵衛平景清であると伝えられていますが、その他に佐々木高綱や同義清などの諸説がありいずれも明らかではありません。しかし築城は長寛から文治年間(1163年~1189年)の頃と推定されています。難攻不落の要塞城と言われており、主家への忠義を貫いた山中鹿介の銅像や供養塔、随所に残る石垣や石畳の古道が往時の面影を伝えています。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定され、2006年(平成18年)には「日本名城100選(65番)」にも選ばれています。
月山富田城は菅谷口、御子守口、塩谷口の3方面からしか攻められず、城内郭の下段が落ちても、中段の山中御殿で防ぎ、そこが落ちても、主山の月山に登って防ぎ、頂上には堀を築き、守りを固め、一度も落城しなかった天下の名城として知られています。
この月山には、平時は時を告げ、非常時は兵士を招集する太鼓があったという太鼓壇(たいこのだん)という場所があります。現在は春になると、たくさんの桜が咲く名所となっています。
鎌倉幕府の成立によって、出雲守護に任命された佐々木義清が富田城に入ってから、鎌倉時代後半に守護が塩冶大廻(えんやおおさこ)城に移ったことはありましたが、南北朝時代には山名氏、室町時代には京極氏と、歴代の守護の居城となりました。
月山富田城が最も華やかであったのは、京極氏の守護代であった尼子氏、中でも尼子経久(つねひさ)の時代です。
経久は、下克上の戦国期に守護代の地位から守護京極政経に対抗して戦国大名として独立しました。経久は、この対立から富田城を追われましたが、1486年(文明18年)に劇的な富田城奪回に成功したと言う逸話が残されています。その後出雲諸城はもちろん、1541年(天文10年)に84歳で没するまでに山陰・山陽まで領し、もっとも繁栄しました。
経久の後を継いだ尼子晴久の代には安芸の毛利元就に侵攻され、1566年(永禄9年)尼子義久の篭城戦の末、富田城は開城しました。
提供:安来市観光協会