小谷城の本丸曲輪は江戸時代中期の小谷城古絵図によれば鐘丸として機能しており、天守があったと推定されています。
本丸跡
江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。
本丸の規模はおよそ南北40m×東西25m、上下二段から成り立っており、本丸下にはかなりしっかりと石垣が残っています。
本丸
鐘の丸ともいう 石垣をめぐらした約十二米の高所に約三十米に二十五米の広さをもつ 落城寸前まで城主長政が居住していた処である 彦根城西ノ丸の三重櫓は元小谷城天守と伝える
この案内板にあるように、かつては小谷城の天守が長浜城に、そして彦根城の西の丸三重櫓として移築されたと伝承されていたが、1955年(昭和30年)の解体修理ではそのような形跡は発見されませんでした。
ただし西の丸三重櫓は1853年(嘉永6年)に8割近くが大修理されているため発見できなかっただけという指摘もあります。
また、本丸の北側には深さ10m×幅15m×長さ40mからなる大規模な堀跡があり、曲輪同士(本丸と中の丸)を分断しています。
この大堀切によって、防御面では強化されている一方、相互での行き来、とくに戦力の柔軟な運用をむずかしくしています。