小谷城跡からクルマで約30分、長浜市野村町の南端を流れる姉川の野村橋(のむらばし)付近一帯が、有名な「姉川の戦い」の舞台となった場所です。
「姉川の戦い」は1570年(元亀元年)に起きた、浅井・朝倉軍約1万8千人と織田・徳川軍約2万8千人によって行われた合戦です。
なお「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏による呼び方で、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼ばれていました。
この戦いにより、姉川は血で真っ赤に染まったといわれています。
また付近の「血原(ちはら)」や「血川橋(ちかわばし)」という地名が、当時の惨状を伝えています。
姉川古戦場
元亀元年(1570)6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が、長浜市を流れる姉川の両岸に布陣し合戦を展開しました。
旧陸軍参謀本部編纂(へんさん)の「日本戦史」によれば、浅井軍八千人・朝倉軍一万人で、対する織田軍二万三千人・徳川軍が六千人で、午前5時に始まり午後2時に終わったとされています。同書によれば、合戦は28日未明に、この西方に陣した朝倉・徳川軍の間で始まり、最初朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政らが側面から朝倉軍を突き形勢は逆転しました。
一方、この一帯では浅井・織田軍の間でも戦闘が開始され、最初浅井軍が優勢でしたが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川軍の加勢により、浅井軍も敗退したと伝えられています。
ただ最近、姉川合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられています。合戦後、織田信長は本陣を横山城や虎御前山城におき浅井氏攻撃を続けましたが、最終的に浅井氏が滅亡したのは、3年後の天正元年(1573)9月1日でした。なお、合戦があった旧暦6月28日は、現在の暦では同年7月30日に当たります。 姉川の合戦再見実行委員会
「姉川の戦い」での戦死者を供養する石碑などがあります。
なお、位置的には長浜城のほうが近く、公共交通機関で訪問する場合はJR北陸本線・長浜駅から湖国バスで約15分、「野村橋」で下車するといいです。