山麓駐車場の近くにある小谷城の案内板ふたつの内容を紹介します。
国指定史跡 小谷城跡
戦国時代、「近江を制するものは天下を制す」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となりました。このため多くの城郭が築城され「近江の城郭を語らずして中世は語れず」と言われるほど、近江には中世の城館が数多く見られます。その中でも小谷城は、亮政・久政・長政の三代にわたって、小谷山全域に築かれたわが国でも屈指の規模をもつ中世城郭で、日本五大山城の一つに数えられています。
小谷城は、織田信長の激しい城攻めにより落城しましたが、その後、城跡は、何ら手を加えられることなく長く埋もれたまま、当時の面影を今に残し、私たちに伝えています。
浅井家は、三代にして50年あまりで滅んでしまいましたが、長政とお市の方(織田信長の妹)の間に生まれた三人の姫は、成人して、長女の茶々は豊臣秀吉の側室―淀君―として、次女の初子は大津城主京極高次に嫁ぎ、三女の達子は徳川二代将軍秀忠の夫人となって、家光(三代将軍)・忠長・千姫・東福門院(後水尾天皇中宮)等を生み、何れも日本の歴史の一こまをかざるとともに、後世に名を遺しました。
国指定史跡 小谷城跡
小谷城は戦国乱世の大永四年(一五二四)浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、久政を経て、三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(一五七三)までの五十年間、浅井氏が根城としたところであり六角氏との戦や姉川の戦にもこの城から多くの将士が勇躍して出陣したのである。
また、この城は信長の妹お市の方の住した所でありその子淀君や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもあって、ひとしお旅情をそそるものがあろう。小谷城は、北国街道、中山道、北国脇往還の交通の要衝にあり、湖上交通を利用すればはるか湖南・湖西・京都へと通ずる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。城は典型的な山城であり、下より尾根上に出丸、金吾丸、番所、御茶屋、御馬屋、馬洗池、桜馬場、黒金御門、大広間、本丸、中ノ丸、刀洗池、京極丸、小丸と続き海抜三九五メートルの山王丸を頂とする。山腹には赤尾屋敷、御局屋敷、大野木屋敷を始め、削平地、竪堀等遺構は全山を埋めている。更に主峰大獄六坊を始め要所には遺構が散在し清水谷には根小屋跡があって、武将たちの屋敷跡が歴然としており、これより続く城跡西方の平坦地は城下町であった。落城後木下藤吉郎秀吉によって城楼、城下町、寺院等が今浜(現長浜)に移され今は空しく松籍のみが、昔の悲劇を物語っている。
昭和五十一年十月湖北町教育委員会