丸岡城の天守台の石垣には「人柱お静」と呼ばれる伝説があります。
伝説「人柱お静」
これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(一五七六)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れるように進言するものがあった。そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮しをしていた片目のお静であった。お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。
お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は、"お静の涙雨"と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。
「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。
城内にはお静の慰霊碑が建てられています。
お静慰霊碑
天正三年、丸岡城主柴田勝豊が築城の際人柱にされたお静の非業を慎み柴田勝家公四百年法要にあたりその一族が発願して建立した
維時昭和五十七年十月