吉田城
吉田城

[愛知県][三河] 愛知県豊橋市今橋町


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.30(105位)
  • 見学時間:53分(105位)
  • 攻城人数:1267(86位)

吉田城の歴史

姫路城に移る前の池田輝政のほか、松平氏や水野氏など徳川氏に近い人物が城主をつとめた吉田城の歴史を時系列でまとめています。

吉田城とは

吉田城は現在の愛知県豊橋市今橋町に所在した平城です。
豊川と朝倉川の合流点、豊川の左岸という立地から河川を天然の防御線として利用したタイプの城であることがわかります。当初は土塁と空堀といった簡易的な防御機構のみを備えた構成でしたが、16世紀終わりごろには大きな改修を受けたことが調査で判明しています。
それは川を背にした本丸を二の丸・三の丸・侍屋敷が半円状に囲むという、半円郭式とも呼ばれる構えに見てとることができます。

1505年(永正2年)、今川氏の被官であった牧野古白が今川氏親の命によって築城したのがはじまりとされ、以降は今川氏と松平氏の紛争により両者の間で度々城主が変わっています。
1560年(永禄3年)に「桶狭間の戦い」で今川義元が敗死すると、吉田城への今川氏の影響力は弱体化。
1562年(永禄5年)にのちの徳川家康である松平元康が当城を攻撃し、1565年(永禄8年)に開城させると酒井忠次を城主として送り込みました。
1572年(元亀2年)には城下にて、三河へと南進してきた武田軍を迎撃、防衛に成功するなど戦略的にも重要な役割を果たしてきました。

1590年(天正18年)には家康が関東に移封されたことにより、代わって池田輝政が城主の座につきます。
先述した16世紀末の城の大改修は、この輝政の統治時代に行われたものと考えられています。
1601年(慶長6年)、輝政が姫路へと移封されたことにより城主には松平家清が入城、三河吉田藩が立藩されます。
以降、松平氏・水野氏・小笠原氏・久世氏・牧野氏らが城主を務めることになりますが、家流は違えど圧倒的に松平氏が多く、吉田城は徳川氏にとって重要な拠点であり続けたことがうかがえます。

1869年(明治2年)、豊橋城とも呼ばれていた当城は版籍奉還により明治政府の統治下に置かれました。
1871年(明治4年)には兵部省の管轄となり、1873年(明治6年)には火災により城内の多くの建物が消失。1876年(明治9年)には残った太鼓櫓などの建物20棟が入札で払い下げられ、1885年(明治18年)には陸軍の歩兵第18連隊が城内に設置されました。

第二次大戦後の1949年(昭和24年)には旧・三の丸を中心に豊橋公園として整備され、1954年(昭和29年)に本丸跡に隅櫓が模擬復元されました。
1977年(昭和52年)には本格的な調査が開始され、現在までに50次を超える発掘が行われています。
2016年(平成28年)には隅櫓内の資料館がリニューアルオープンし、その翌年に続日本100名城に選定されています。

吉田城の歴史・沿革

西暦(和暦) 出来事
1505年(永正2年) 今川氏被官・牧野古白により築城
1506年(永正3年) 今川氏と松平氏の戦闘で吉田城が落城、牧野古白が討死
1529年(享禄2年) 松平清康が吉田城を攻略
1535年(天文4年) 清康が暗殺され、牧野成敏が吉田城主に
1537年(天文6年) 牧野氏を放逐し、戸田宣成が吉田城主に
1546年(天文15年) 牧野保成の要請で今川氏が吉田城を攻略、小原鎮実が城主に
1560年(永禄3年) 桶狭間の戦いで今川義元が敗死、吉田城への今川氏の影響力が弱体化
1562年(永禄5年) 松平元康が吉田城を攻撃
1565年(永禄8年) 吉田城が開城し小原鎮実は退去。酒井忠次が城主に
1572年(元亀2年) 南進してきた武田氏の軍勢を吉田城下で迎撃、防衛に成功
1590年(天正18年) 家康が関東に移封され、池田輝政が吉田城主に
1601年(慶長6年) 池田輝政が播州姫路に移封
同年 竹谷松平氏の松平家清が吉田城に入城、三河吉田藩が立藩
1613年(慶長18年) 深溝松平氏が城主に就任
1633年(寛永10年) 水野氏が城主に就任
1645年(正保2年) 小笠原氏が城主に就任
1654年(承応3年) 城主・小笠原忠知が空堀を水堀に改修、農業用水にも利用
1698年(元禄11年) 久世氏が城主に就任
1706年(宝永3年) 牧野氏が城主に就任
1707年(宝永4年) 宝永地震で吉田城に被害
1713年(正徳3年) 大河内松平氏が城主に就任
1730年(享保15年) 本庄松平氏が城主に就任
1750年(寛延3年) 大河内松平氏が城主に就任
1854年(嘉永7年) 大地震で吉田城に被害
1869年(明治2年) 版籍奉還で吉田城(豊橋城)は政府の統治下となる
1871年(明治4年) 吉田城の敷地が兵部省の管轄に
1873年(明治6年) 火災により城内の建造物が焼失
1876年(明治9年) 残った太鼓櫓などの建物20棟が入札で払い下げられる
1885年(明治18年) 陸軍・歩兵第18連隊が城内に設置される
1949年(昭和24年) 旧・三の丸を中心に豊橋公園として整備
1954年(昭和29年) 本丸に隅櫓が模擬復元される
1977年(昭和52年) 吉田城の発掘調査開始
2016年(平成28年) 隅櫓内の資料館がリニューアルオープン
2017年(平成29年) 続日本100名城に選定
このページに記載してある内容の大半は「戦国ヒストリー」編集部に寄稿していただきました。ありがとうございます!
   

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「長篠の合戦」を武田信玄の死から書き起こし克明に描く。勝頼は信玄の遺産である宿老たちを掌握できず苛立ち、家康は武田の圧力に対抗するため信長との同盟に神経をすり減らし、秀吉は信長の戦略を実現するために知恵を振り絞り奔走する。「鉄砲の三段撃ち」は武田軍が突撃してこなければ成り立たない。なぜ勝頼はそうしたのか、そこにいたる過程を様々な視点から描いていて見事だ。宮下帯刀ら戦の最前線に立つ地侍や足軽の戦いの様子も描かれている。また、長篠城、高天神城をはじめ数多くの城が登場し築城や攻城戦の様子が描かれている。

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