冠木門とは別に、二の丸から本丸に入るもうひとつの門が裏御門でした。
裏御門の建物は残っていませんが、枡形構造になった石垣だけは現存しています。
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本丸側から見た裏御門跡です。
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裏御門跡の入口(二の丸側)に案内板があります。
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吉田城の縄張り
吉田城の縄張りは豊川や朝倉川を背に本丸を基点として、二の丸・三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」と称されるものである。ただし、この縄張りの欠点は、河川を背にして戦う背水の陣となり、さらに背後からも渡河され、本丸を直接攻撃されやすいことにある。このため、吉田城は本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとしてその弱点を補っている。
その城域は、東は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手町から呉服町、西は関屋町に達するおおよそ840,000m2(約25万5千坪)にも及ぶ広大なものであった。
今橋城時代の縄張りがどのようなものであったのかそれを裏付ける史料はないが、往時の本曲輪は、現在の本丸と三の丸会館の間(現在地付近)の金柑丸跡を中心とする一帯と推定される。
当時の本曲輪とされる金柑丸跡の石碑は、案内板のすぐそばにあります。
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