かつて織田信長が居城としていた清州城には現在、模擬天守が建てられています。
かつての清洲城
織田信長はかつて「桶狭間の戦い」この城から出陣するなど、清州城は約10年間にわたって信長の本拠として使われましたが、当時の清洲城に天守はありませんでした。
天守の存在が明らかになるのは、1582年(天正10年)の「本能寺の変」のあと、いわゆる「清洲会議」でこの城を相続することになった信長の次男・織田信雄によって建てられたものです。
1586年(天正14年)に信雄によって2重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われた記録があります。
なお、このときの清洲城の大改修は1586年1月18日(天正13年11月29日)の天正地震の被害を受けてのことだと推定されています。
その後、「関ケ原の戦い」のあとには徳川家康の四男・松平忠吉が入りましたが、その忠吉が病死すると1607年(慶長12年)には家康の九男・徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となりました。
この当時には天守もあったと思われますが、1609年(慶長14年)から行なわれた、いわゆる「清洲越し」によって城下町ごと移転する際に、城の部材も名古屋城築城に転用されます。
とくに天守は名古屋城御深井丸西北隅櫓の資材として転用、またはそのまま移築されたため「清須櫓」とも呼ばれています。
(小天守の部材が転用された可能性もあり)
清洲城模擬天守
現在の天守は、1989年(平成元年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、RC造によって建設された模擬天守です。
望楼型3重4階と、その外観や規模は、実在した当時を想像して建てられたものです。清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建てられたため、当時とは異なる位置にあります。
内部は撮影不可ですが、清州城や織田信長に関する資料が展示されています。
最上階の展望台からは前を流れる五条川や、対岸の古城跡がよく見えます。
東海道新幹線も見ることができます。