清洲城の前にある大手橋をわたったところに、復元石垣が展示されています。
この石垣は1610年(慶長15年)頃、清洲越直前に存在していた本丸南側の石垣で、1996年(平成8年)に行なわれた遺跡調査で発見されたものです。
清洲城の石垣
清洲城は、応永年間(千四百年頃)に、尾張守護職であった斯波義重(しばよししげ)により守護所下津城(現稲沢市)の別郭として築城されたといわれている。その後、文明八年(一四七六)守護所が清洲に移されると、津島などとともに尾張有数の都市として繁栄した。
その後、織田信長、織田信雄と城主をかえ、徳川家康の命により慶長十五年(一六一〇)「清洲越」が始まり、城下の住民や石垣、建物等の大部分が名古屋城へ移され清洲城は廃城となる。
復元された本石垣は、平成八年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清洲公園前の五条川右岸(現在は下流二〇〇米に銘板で表示)で発見されたもので、清洲越直前の本丸南側の石垣と考えられる。
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木(はしごどうぎ)」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。平成十三年三月
愛知県教育委員会
清洲町
愛知県河川工事事業所