扇谷上杉氏が北条早雲に備えるために築いた城で、太田道灌の最期の地としても知られる丸山城にも攻城団のチラシを置いていただきました。
丸山城址公園の写真を使わせていただきました。
伊勢原駅にある駅ナカ クルリンハウス(伊勢原駅観光案内所)で入手できます。
伊勢原市教育委員会の葉山さんからコメントをいただけたのでご紹介します。
コラボチラシコレクションを公開しました。お持ちのコラボチラシをチェックしてみてください。
江馬時盛が築城し、のちに飛騨一国を与えられた金森長近が大改修をおこなった神岡城にも攻城団のチラシを置いていただきました。高原郷土館で入手できます。
つづきを読む国史跡に指定されている奥飛騨の国人・江馬氏の本拠地、江馬氏下館にも攻城団のチラシを置いていただきました。江馬氏館跡公園で入手できます。
つづきを読む蜂須賀正勝の子である蜂須賀家政によって築かれ、日本100名城に選ばれている徳島城にも攻城団のチラシを置いていただきました。徳島城博物館で入手できます。
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明治時代になって殿ノ窪は丸山となり、明治20年にまとめられた「下糟屋村外六ヶ村地誌」の中に「丸山城」という名前が初めて見られ、昭和8年に刊行された『延喜式内社 高部屋神社小誌』には、糟屋有季の居跡としながらも、「千鳥ヶ城」という別名が登場します。
丸山城は、高部屋神社を中心に下糟屋の丘陵上に位置し、西は東海大学病院のある上ノ台、東は普済寺あたりまで城郭遺構が確認されています。また、普済寺の東側では、建物址や井戸、地下式坑、柵列などが発見され、生活エリアが広がっています。
丸山城址公園部分については、昭和60 年に伊勢原市教育委員会が詳細分布調査を実施した結果、丘陵部で堀、土塁、竪穴状遺構などが確認され、室町時代後半のかわらけや陶器が出土し、中世城郭の存在が明らかになったことから、その一部を公園として保存することとしました。
範囲確認調査の結果、公園用地中心部の上段には幅10m前後の土塁がまわっており、一部を除きほとんどは削られていますが、トレンチ調査により地中で土塁の盛土を確認し、その基底面が地表面下1~2mの所にあることがわかりました。土塁に囲まれた平坦部分では、建物址も確認されています。
また、下段には、上段の外側を取り巻くように堀が巡っており、その幅は16m前後、深さは4~6mを測り、堀の底面には仕切り(障子)や衝立状の段差が確認されています。形態としては堀障子に似ていますが、階段状の掘り残しがそのまま残されており、造りかけとも考えられます。この堀の外側にも、幅10m前後の土塁が造られていたことが確認されています。
丸山城から出土した遺物は、青磁、白磁、かわらけ、陶器、瓦等です。出土量は多くありませんが、それらの時期は、鎌倉時代から室町時代前半と室町時代後半から戦国時代にかけての時期に2分されます。前者は一部が糟屋氏の時期と重なり、後者は当地域で活躍した太田道灌の時代にあたります。丸山城の規模や構造を考え合わせると、道灌の主君である上杉定正に関連する城(館)の可能性も想定されます。出土した遺物で特徴的なものに「ウズマキの文様」があるかわらけがあります。このウズマキかわらけが出土しているところは、丸山城の他、南から韮山城、茅ヶ崎城、江戸城、騎西城、河越城、岩槻城、松山城、六反田遺跡、五十子陣などで扇谷上杉氏とのかかわりがあるとされています。
現在では国道246号沿いという利便性の高い立地もあり、週末になると家族連れで賑わいます。天気が良い日は秀峰・大山も眺めることができ、市内でも人気のスポットとなっています。幻の城、丸山城にぜひお越しください。