現在の岐阜城天守は、1956年(昭和31年)7月25日に完成したものです。
この3重4階、鉄筋コンクリート造の復興天守の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計したもので、大日本土木が施工しました。
(ただし、じっさいに建てられた天守は予算等の都合上、設計されたものとは異なるそうです)
天守の再建に向けて、1955年(昭和30年)から募金が行われ、建築費用2000万円のうち約4ヶ月間で1800万円が集められたそうです。
また、1997年(平成9年)2月からは「平成の大改修」と呼ばれる修築工事が行われました。
天守内部の撮影は一部をのぞいてできませんが、3階までは史料展示室となっています。
また、最上階である4階は展望台(望楼の間)となっています。
展望台からの眺めは長良川や岐阜市街を一望できて素晴らしいです。
また、かなり小さいですが、犬山城の天守も見えます。
それ以前の天守
初代の復興天守
明治時代にも復興天守が存在していました。1910年(明治43年)5月15日に落成した初代の復興天守は木造・トタン葺き3重3階建てで、高さは15.15m、長良橋の古材を利用し岐阜市保勝会や岐阜建築業協会らの手によって建てられた、日本初の観光用模擬天守です。
この天守を建てる際に、石垣をひと回り小さく積み直してしまったそうです。
しかしこの天守は1943年(昭和18年)2月17日の早朝に失火のため焼失しました。
安土桃山時代の天守
織田信長が斎藤龍興から稲葉山城を奪い、岐阜城と名を改めた当時、山頂に天守はなかったと考えられます。ただし山麓には4重の南蛮様式を取り入れた「天主(てんしゅ)」と呼ばれる御殿があったそうです。現在、この御殿跡は岐阜公園の一部として整備されており、岐阜市による発掘調査が行われています。山頂に天守が築かれたのは織田信忠か池田輝政の時代だと考えられます。
この天守の詳細はいまも不明で、廃城後に他の建物とともに加納城へ移築されたといわれていますが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失しました。
なお、当時の岐阜城天守が加納城に移築されたことはを断定できる史料はまだなく、これだけ高い山から部材をわざわざ運び出す理由もないため、移築されたのは山麓の御殿のほうだという説もあります。