別名 放生津館、奈呉城

放生津城は越中守護代・神保氏の居城として知られています。もともとは鎌倉幕府の越中国守護所でした。1493年(明応2年)に起きた「明応の政変」の際には畠山政長の重臣であった神保長誠が、幽閉された室町幕府10代将軍・足利義材をかくまった城でもあります。その後、1520年(永正17年)には上杉謙信の父である長尾為景に攻められ落城、神保氏は一時衰退します。神保長職の代に再興して富山城を築くと、居城を移してこの城も再建されています。前田氏の時代にも城代が置かれていましたが、江戸時代初期に廃城となりました。現在城址には射水市立放生津小学校があり、遺構はグラウンド地中に埋まっています。なお周囲の土塁状のものは遺構ではありません。1991年(平成3年)の調査で見つかった出土品の一部が射水市新湊博物館で常設展示されています。
放生津城へのアクセス情報 情報の追加や修正
---
じっさいに訪問した方の正確な情報をお待ちしています。 フィードバック
各スポットの詳細な位置関係は 周辺地図で確認してください。
最寄りのバス停放生津城とあわせて訪問するのにオススメのお城です。
放生津城の周辺にあるホテルや旅館を表示しています。
あなたが泊まったホテルのレビューをお願いします!(レビューはホテルの詳細ページから投稿できます)
情報提供元:楽天トラベル
まだ本城登録している団員がいません
築地本願寺セミナー「資料から読み解く中世社会~刀狩り令で刀は没収されたのか~」に参加し、その中で講師の方が紹介されていたので、刀狩りについてもっと知ろうと思い手に取りました。この著書には日本でおこなわれた三つの刀狩り(豊臣秀吉の刀狩り、明治維新の廃刀令、占領軍による民衆の武装解除)について書かれています。豊臣秀吉の刀狩りで農民の武装解除がされ、明治維新の廃刀令で武士の武装解除がされ、世界一治安の良い日本があると思っていましたが、前者は武士と農民を区別する事、後者は一般市民と軍・警・官を区別する事が目的で完全な武装解除ではなく、実は占領軍によって民衆の武装解除が徹底的に行われたことを知りました。この著書を読んで豊臣秀吉の刀狩りに対する考えが少し変わったような気がします。
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する