小牧山城に設置されている案内板の内容を紹介します。
国指定史跡小牧山と歴史館のご案内
小牧山 標高八五・九メートル 面積約二一万平方メートル(約六万三千五百坪) 小牧山は、本市のほぼ中央、市街地の西側にあって、濃尾平野に孤立する小さな山で、昭和二年一般に公開、この年国より史跡の指定を受け、その後徳川家から小牧町(当時)へ寄付されました。この山は古くから桜の名所として親しまれ、今日では四月上旬に「小牧山さくらまつり」が催され、たくさんの見物客でにぎわいます。 歴史館(小牧城)は昭和四三年 平松茂翁(故人)が私財を投じて建設し小牧市に寄付されたもので、鉄筋コンクリート三層四階建て、高さ一九・三メートル、秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして名古屋工業大学城戸久教授(故人)の設計によって建てられました。 館内は市指定文化財の銅鐸、銅鏡をはじめ考古・民族・歴史資料や小牧・長久手合戦のパノラマなどが展示されて小牧市の歴史をすることができます。 永禄六年(一五六三)織田信長が美濃(岐阜)に進出する大志のもとに、地の理を得たこの山に目をつけ、清須(洲)城から移ると共に山全体を要塞にするため、山頂から麓まで五段の塁濠をつくり、山頂に屋敷、南側に大手道、北側に搦手道をつくりました。中腹には馬場をつくったり、井戸を掘ったり、また要所に重臣の邸宅を置きました。当時は、北側は池沼で自然の要害であったため工事は省かれましたが、南側は原野であったため大工事であって、あちこちに堀をつくりましたが、それらは今なお山中にみられます。その後信長は美濃に攻め入って岐阜稲葉城に移り住んだので、この山は自然廃城となりました。そして小牧・長久手の戦で再び歴史の舞台に登場してきます。天正小牧山合戦
天正十年(一五八二)の本能寺の変の後、信長の後継者問題で二男信雄と秀吉が対立、秀吉は信雄を懐柔しようとしますが、これに応じずかえって反逆したため北伊勢の居城を攻撃します。信雄は驚き家康に援助を求めたところ、信長に恩のある家康はこれを引き受け、自ら大軍を率いて清須(洲)城に入り、地の利第一の小牧山に軍を進めました。一方秀吉は大坂(阪)城を出て犬山城に入り、市内の岩崎山を中心にこの付近各地に巾広く砦を築いて、小牧山の家康・信雄軍と対峙しました。この時の両軍の兵力は十万余と言われます。しかし、戦いは小ぜり合いを繰り返し、長く膠着状態が続きました。秀吉は、部下池田信輝の再三の進言によって、家康の居城である岡崎城を攻撃すれば一挙に解決するものと考え、軍の一部を密かに移動させますが家康軍に気付かれ 家康自ら秀吉軍を急進撃します。これが長久手を舞台に繰り広げられた長久手の戦いで、家康軍の完勝となりました。
小牧市