攻城団ブログ

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原城の築城年について南島原市に教えていただきました

このたび原城の築城年について修正したのですが、その経緯について紹介しておきますね。攻城団も参照される側になることがあるので、できるだけ正しい情報を掲載できるように気をつけます。

原城の築城年について、南島原市企画振興部・世界遺産推進室に教えていただいたのでシェアしますね。

まず、ぼくが登録する際にはできるだけ複数の情報にあたるようにしています(とはいえ同じ出典を参照しているケースも多いので複数見ればOKということでもないのですが)。
原城の築城主、築城年については「有馬貴純」が「1496年(明応5年)」に築城したというのが定説のようでした。

これはWikipediaだけじゃなく長崎県観光連盟のサイトにも「有馬貴純によって築かれた」とあるので、そのまま登録していました。
ちなみに『日本城郭大系』にも同様の記載がありましたが、紹介文ではいちおう以下の疑問提起も書かれていました。

原城はその頃、明応五年に貴純によって築かれたと伝えられるが、貴純の没年は同二年であり、没後の完成とみるか、その点疑問もある。

いずれにせよ、「有馬貴純・1496年(明応5年)築城説」を前提に書いていたのですが、どうやらこれは正しくないらしく、今回指摘していただいたという経緯です。
もちろんまちがいなど最初からないほうがいいに決まっているのですが、残念ながら定説が変わっていくたびに修正が追いついていなかったり、そもそも参照した情報がまちがっていたり、あるいはぼくが単純にミスしていたりと正しくない情報が掲載されていることがたまにありますので、こうして指摘していただけるのはほんとうにありがたいことです。

いただいたメールには築城者は「有馬晴信」で、築城年は「1599年(慶長4年)」とありました。
そのまま直してもよかったのですが、いちおうぼくも調べて登録しているため(長崎県観光連盟のサイトの記載がまちがっているということになるので)、「有馬貴純・1496年(明応5年)築城説」がくつがえった経緯や根拠があれば教えてくださいと質問しました。

その回答が以下です。

 有馬貴純によって明応5年(1496)に築かれたとする説について、林銃吉氏が『島原半嶋史』に紹介されたものが、長らく引用されておりましたが、その論拠ははっきりとしておりません。
 そもそも論として、信長の安土城や、そのモデルとなった可能性がある六角氏の観音寺城も16世紀の範疇ですから、15世紀末に総石垣の本丸を持つ原城が築城されていたとすると、日本の城郭史を根底から揺さぶる大問題であるかと思います。
 発掘調査は平成4年から行われておりますが、検出された石垣は織豊系城郭の特徴を持っており、出土陶磁器も16c末~17c初頭ごろのものです。
 また、イエズス会の報告書である『日本年報』などに1599~1604年の築城に関する記述があり、1980年に五野井隆史氏によって発表されています。

 市では原城跡の築城に関して、慶長期として情報発信を行っておりますが、残念ながら明応5年説がまだ一人歩きしている観は否めません。攻城団様におかれましてもご協力を頂けたら幸いです。

このメールを受け取ったコースケさんとは「なるほどねえ」とやり取りしたのですが、すでにサイトの情報は「有馬晴信・1599年(慶長4年)築城説」に修正済みです。
なお、

15世紀末に総石垣の本丸を持つ原城が築城されていたとすると、日本の城郭史を根底から揺さぶる大問題であるかと思います。

については「築城時は土塁だったけど、のちに改修によって石垣づくりとなった」と考えればわりとよくある話なので、その場合は「なにをもって城と定義するか(居館の拡張や改修で城郭化した場合に、「築城」とはどのタイミングを指すのか」という毎度おなじみの問題にぶちあたるのですが、今回は発掘調査においても16世紀末以前のものが見つかっていないことや、『日本年報』の記述などを踏まえても1599年(慶長4年)の築城は妥当だろうと受け止めました。

ま、このへんについてぼく個人は正否を判断する知識を持ちあわせていないので、地元自治体の「決め」を常に尊重するスタンスです。

ちなみに今回は南島原市のほうで、世界遺産推進をおこなうためにいろいろ調べているとネットには正しくない情報が広まっていることに気づき、さらに有馬キリシタン遺産記念館の
来館者アンケートに「攻城団を見て来た」とあったので攻城団を見てくださり、修正依頼が届いたという経緯だったようです。

原城は先日発表された「続日本100名城」にも選定されましたし、全国のお城好きにさらに注目されるでしょうから正しい情報が届くといいですね。
ぼくらもお役に立てればと思っています。

あと原城跡の写真をたくさんご提供いただきました。

夕暮れの原城跡[原城]
提供:南島原市企画振興部・世界遺産推進室 | 夕暮れの原城跡[原城]
原城跡全景[原城]
提供:南島原市企画振興部・世界遺産推進室 | 原城跡全景[原城]

すべての写真を見る

そのほか教えていただいたこと

以下についても教えていただきました。

「森岳城」「島原城」の呼称

「島原城」と「森岳城」の呼称が統一されていない件などについても教えていただきました。

築城当初は森岳城と呼ばれていたようで、長らく長崎県の遺跡地図にも「森岳城跡」として登録されていました。島原城の呼称については、通りがよく、漸移的とは思われますが、元々の「森岳城」よりも広く使用されるようになったのだろうと考えます。
ところで同城跡が平成28年2月18日に県史跡の指定を受けているのですが、この際には「島原城跡」の名称が用いられています。
当方でも疑問に思い県教委に問い合わせたところ、島原市教委と相談されて、この史跡指定を機に「島原城」の名称の方に統一していくとの事であり、遺跡名称も「島原城跡」に変更したそうです。Web上でまだ「森岳城跡」の記載が残っているところもありますが、随時移行するとのご回答でした。
お問い合わせを機に、南島原市でも名称の使用について整理ができました。御礼申し上げます。

攻城団では「島原城」または「島原城(森岳城)」という表記になっていますのでとくに問題はないのですが、どれを正式名称とするか(どれを別名とするか)はお城のデータを作成するときにけっこう悩む問題なので、こうして経緯がわかると助かりますね。

日野江城跡の築城

日野江城の築城についても教えていただきました。

 『藤原姓有馬家世系譜』などから、建保期に常陸より地頭職として補任された経澄を始祖とする説がある一方、『深江文書』の記録から在地の開発領主が発展したという見方もあります。史料のみならず、発掘調査によって築城時期の遺構・遺物などを特定できればよいのですが、これには至っていません。城の存続時期が長く、改修を受けている可能性もあるため、少なからず難しさもあります。
 完了年に関しては、中世末~近世初頭頃に、二ノ丸において曲輪の大規模化、石垣の導入、枡形虎口の採用など織豊系城郭の影響を受けた特徴が認められ、これらが史跡日野江城跡の空間構成の中でも、重要かつ代表的な要素の一部となっておりますので、完了年を南北朝時代までに抑えてよいか、難しいと感じています。

 以上のような事から、「中世 ~ 近世初頭」の城跡として紹介させて頂いている場合が多いです。
   
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