麒麟がくるの検索結果

75件の記事が見つかりました
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    【5/28、京都市】佛教大学で池端俊策氏による講演会開催

    5月28日、佛教大学紫野キャンパスにおいて大河ドラマ「麒麟がくる」の脚本家、池端俊策氏による講演会が開催されます。 Zoomウェビナーによるオンライン受講も可能です。

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    明智光秀と榎本秋――あるいは麒麟は来たのか(「麒麟がくる」と過ごした一年を振り返り)

    一年あまりの連載を振り返って、榎本先生にコメントをいただきました。大河ドラマ「麒麟がくる」そしてこの連載を楽しんでいただけましたか?

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    明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

    信長の小姓として「本能寺の変」で運命をともにした森乱丸ですが、障子を信長に閉めてくるように命じられた際に(信長に恥をかかせぬよう)閉まっていた障子をいったん開けてから、音を立てて閉めるなど、度を超えた忠実ぶりを発揮した逸話が残っています。

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    明智光秀と誠仁親王――あるいは「本能寺の変」の当事者

    誠仁親王は正親町天皇の第一皇子です。信長が自らの居館としていた二条新御所を譲られ居住していたのですが、本能寺の変の際にはこの館に信忠が立て籠もったため、巻き込まれることになります。非常時とは言え、親王の邸宅に押し入っちゃえるほど織田家の権勢はすごかったんですかね。

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    【1/27〜、岐阜県】「岐阜のお城カードめぐり」において岐阜城カードの第2弾が配布開始

    現在開催中の【岐阜のお城カードめぐり「ときは今!明智光秀ゆかりの地へ!」】において、先着枚数に達し配布終了となっていた「岐阜城カード」の配布が再開されました。

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    明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

    明智光秀より早く、信長に謀反を起こしたのは松永久秀だけではありません。 摂津・有岡城の荒木村重もそのひとりです。光秀の長女(お岸)が村重の息子・村次に嫁いでいたので、以前光秀が寝込んだ際に駆けつけたときも「荒木の父上が許してくれた」と話してましたね。

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    明智光秀と赤井直正――あるいは光秀の前に立ち塞がった壁

    赤井直正は光秀の丹波攻略に抵抗した黒井城の城主です。もともと丹波の国衆は足利将軍家に仕えていたため義昭追放に連動して反織田になったようですが、直正がこのとき病死しなければ歴史は変わっていたかもしれませんね(光秀に暗殺された説もあるとか)。

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    明智光秀と細川忠興――あるいは太平のための裏切り

    信長の命令で、たま(ガラシャ)の夫となった細川忠興は父・細川藤孝や義父・明智光秀に負けず劣らず、文武両道に秀でた人物でした。

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    明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

    歴史的には「春日局の父」として有名な斎藤利三ですが、生年が不明な点や主君を比較的近いところで変えている点、そして中途組なのになぜ主君に重用された点など、光秀との共通点が多い人物です。

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    明智光秀とたま(ガラシャ)――あるいは父譲りの激動の運命

    細川ガラシャという名前のほうが有名ですが、明智光秀の娘・たまはあるいは父以上に波乱万丈な人生を送った人です。一般には三女とされることが多いのですが、このドラマでは次女の設定となっています。

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    明智光秀と朝倉景鏡――あるいは誰のための裏切り?

    戦国時代に主君を裏切ることはそう珍しいことではなく、また織田信長は裏切り行為に寛容な大名でした。 もちろん朝倉景鏡が朝倉義景を裏切った理由がそのまま明智光秀が謀反を起こした理由と重なるわけではないのですが、腹心であり現場指揮官でもあったふたりの行動には通じるものがあったのかもしれませんね。

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    明智光秀と三条西実澄――あるいは文化と権威の意味

    武家同様、公家の分家も多々あり、三条西家は三条家の分家の分家です。この三条西実澄は大納言に任じられた公卿ですが、むしろ細川藤孝に古今伝授を授けた人として有名です。

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    明智光秀と武田信玄――あるいは「信長にとっての脅威」

    信長や家康をドラマにする場合、武田信玄は強力なボスキャラとして登場することが多いのですが、信長と信玄は直接戦ってはいないのです(長篠の合戦は勝頼との対決)。ただ手紙では互いを非難しており、有名な「第六天魔王」の言葉も信玄の売り言葉に信長が返した書状にあります。

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    明智光秀と明智光慶――あるいは運命をともにした親子

    生まれたばかりの赤ん坊・十五郎はのちに明智光慶と名乗るのですが、初陣の記録もなく史料から実在は確認されるものの、謎の多い人物です。バナーにも使っている有名な光秀の肖像画を所蔵する岸和田市の本徳寺を開山した僧が光慶という説もあるとか。

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    明智光秀と覚恕法親王――あるいは比叡山焼討ちの真実

    織田信長により比叡山焼き討ちに遭った天台座主・覚恕は正親町天皇の弟です。中立の立場を守らず朝倉・浅井連合軍を比叡山にかくまったことが理由とのことですが、なぜ比叡山は信長に敵対したのか、そこには複雑な事情がありそうです。

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    明智光秀と筒井順慶ーーあるいは日和見は真実か否か

    筒井順慶といえば「洞ヶ峠」の故事として知られていますが、じっさいには光秀が順慶を威嚇、牽制するために洞ヶ峠に布陣したという説もあるそうです。ともあれ京に近い大和にいながら積極的に行動しなかったことは事実で、日和見主義の代名詞となってしまいました。

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    明智光秀と浅井長政ーーあるいは「不安」が背中を押したのか?

    浅井長政の裏切りの一報が入ったとき、信長は最初これを信じなかったそうですが、明智光秀のときは「是非に及ばず」と語ったと伝わっており、このへんにふたりに対する信長の評価や思い入れが表れているのかもしれませんね。

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    明智光秀と織田信忠ーーあるいは二条御所篭城戦の謎

    「本能寺の変」で織田信長が討たれたとき、すでに織田家の家督は嫡男の信忠(幼名「奇妙丸」)に譲られていました。この変わった名前も謎ですが、なぜ明智光秀は本能寺と同時に信忠がいた妙覚寺を包囲しなかったのかがわからないんですよね。謀反の計画としてはずさんすぎるというか。

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    明智光秀と正親町天皇ーーあるいは信長への恨みはあったのか?

    正親町天皇は後奈良天皇の子で、後陽成天皇の祖父にあたります。幼い頃の伊呂波太夫が温石をもらった相手です。この当時の朝廷はとにかく困窮しており、即位の礼にかかる費用も大名からの献納に頼るしかなかったそうです。正親町天皇の場合は毛利元就がお金を出したそうですね。

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    明智光秀と摂津晴門ーーあるいは能吏同士

    摂津晴門がつとめた政所執事というのはもともと伊勢氏が世襲していたのですが、足利義輝が三好長慶と結んで伊勢貞孝を更迭して起用したのが晴門です。財政と領地に関する訴訟を扱う政所の長官として絶大な権力を持っていたため、どうしても腐敗の温床になりがちだったのかもしれませんね。

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今日のレビュー

戦国の終わりを告げた城―八王子城を探る (ロッコウブックス)

おそらく、八王子城の解説本の中で最も重要な一冊でしょう。
八王子城跡が現在のように整備されたのは、落城400年にあたる1990年以降のことです。本書の出版も同時期で、出版後に発見された遺構もあれば、今は目にすることのできない遺構も多数あります。言い換えると、1990年当時の八王子城跡の姿を記録した書であるとも言えます。八王子城に興味を持ってくださった方にはお薦めの一冊です。すでに廃刊となっていますので、古書店か図書館で探してください。
トンネル工事や台風・地震などにより、現在は失われてしまった石垣などの貴重な写真も多数掲載されていますが、白黒で小さいため分かり辛いのが残念。

赤ヱ門さん)

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