片岡鶴太郎さん演じるなんとも得体の知れない人物として『麒麟が来る』に登場したのが摂津晴門。
鎌倉時代以来の能吏(優れた役人のこと)の一族に生まれた男である。室町幕府において摂津氏は将軍宣下の奏者を代々務めていたというから、要職と言っていいだろう。今回のドラマではこのような点から「幕府の黒幕」的な掘り下げをしていくのではないか。
晴門はいつ生まれて死んだのか、正確なところがよくわからない。
摂津氏の当主、摂津元造の嫡男であることは間違いない。1500年(明応9年)から1510年(永正7年)くらいには生まれていたのではないかと考えられている。
晴門は元造とともに12代将軍・足利義晴に仕えていた。晴の一字は主君にもらったものだろう。義晴が京都を追われて無念の死を遂げた際にも同行しており、以後は義晴の子・義輝の側近になった。義輝が京都に戻って将軍になった際にも、当然彼らの姿があった、
元造の生前には特別目立った業績を残していないが、父が亡くなると活躍が見えてくる。
義輝は彼を政所執事・頭人(財政および領地に関する訴訟を担当する役所の長官)という要職に抜擢しており、評価していたのであろう。代々の役目に違わず、能吏として活躍したものと思われる。
義輝が悲劇にあった1565年の混乱の中で、義輝政権の要人だった晴門も無傷ではいられなかった。十三歳の息子を失っているのだ。
以後の彼の足取りはしばらく不明になる。京都を脱出して義輝の弟である一条覚慶、つまり義昭に合流したのは間違いないのだが、それがいつなのか正確にわかっていない。おそらく義昭が越前に入ったタイミングで京都を離れその背を追ったのであろうと考えられている。
1568年(永禄11年)に義昭が織田信長に擁立されて京都に戻り、15代将軍となると、晴れて晴門も政所執事・頭人となった。この役目では織田家と接点を持つことも少なくないだろうし、光秀と関わることもあったろう。
ところがこの栄光もつかの間、1571年(元亀2年)に晴門は役職を外されてしまう。伊勢神宮に関係する取り決めをきちんと根回しせずにおこなって義昭の怒りを買ったのが原因であるらしい。
史実上、最後にわかる晴門の足跡は翌年、義昭から朝廷への使者を務めたこと。以後、彼がどこで何をし、どこで亡くなったのかわからない。
一説によるとこの頃60代になっていたというから、亡くなったのか引退したのかしたのだろう。義昭の鞆行きに同行したともちょっと思えない。摂津氏の動向も不明で、先に亡くなった子以外に晴門に子がいたかどうかも記録に残っていない。