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明智光秀と筒井順慶ーーあるいは日和見は真実か否か

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筒井順慶は大和の大名である。
代々興福寺の衆徒で、曽祖父の代からは衆徒の棟梁を務めたのが彼の血筋であった。
父の代にはほぼ大和一円が筒井氏の支配下にあり、父の急死を受けてその子の順慶(1歳とも、2歳とも)が後を継いで勢力も継承した。しかし松永久秀の急な勢力伸長に脅かされ、一度は本拠地の筒井城を失うほどの窮地に置かれた。
若き順慶は久秀とたびたび争い、ときに「敵の敵は味方」ということで久秀と敵対する三好三人衆と手を組むこともあった。

このような状況下で織田信長が上洛してくる。
順慶は当初、反織田の立場に立った。三好三人衆との縁もあるが、なにより久秀が織田についたからだろう。
しかし、やがて久秀が織田と縁を切ったこともあって順慶こそが織田側につくことになる。この時に久秀討伐の軍勢に組み込まれた順慶の上司になったのが誰あろう、明智光秀であった。

順慶が織田についたのは当然、父以来の支配地である大和を取り戻すのが目的であったはずだ。
当初、大和守護の座は松永久秀、ついで塙直政(原田直政)に与えられたが、久秀は裏切り、直政は討ち死したので、ようやく順慶が大和の支配を任せられることになった。
ただ実際には支配関係は複雑であり、なにより順慶の上には光秀がいたので、単純に彼こそが大和の支配者だ、と見るわけにもいかないようだ。1581年(天正9年)に行われた有名な京都御馬揃え(軍事パレード)において、光秀は大和衆を率いて行軍しており、その中に順慶もいただろうと考えられているのだ。

では、その順慶は本能寺の変ーー明智光秀の反乱に際して、どんな行動をしたのか。
そもそも、ことを起こすことは聞かされていなかったらしい。当時は上洛していて、事件を知るやすぐに大和へ引き返しているからだ。その後、二度にわたって光秀側に援軍を出したが、二度とも引き返させたのち、結局上司の光秀を見捨てて秀吉側に味方すると誓った……が、実際に山崎の戦いへはどうも参加しなかったのではないか、と考えられている。
最後まで様子見で終わったのが順慶の本能寺の変、山崎の戦いであったろう、というわけだ。

このような有様が世の人々の嘲笑を買い、「順慶は山崎の南、洞ヶ峠まで出たけれど、結局どちらにも味方せず、日和見だけして帰った」などという伝説が生まれるに至った。
前述したとおりこれは史実ではないと考えられるが、順慶の態度が相当の日和見的なものであったのは間違いない。大和の名族の生まれであり、その支配圏を守ることを第一に考えていたであろう順慶は、失われるものを恐れてどちらに味方するか決めきれなかったのではないか。

その後、順慶は秀吉に仕えて大和の支配権を安堵されたが、あまり時をおかず病に倒れ、亡くなってしまった。

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